モン族の悲惨:日本にも、アメリカの大統領だった、J.F.ケネディを褒め称える人もいますが、本当にそうでしょうか?

1960年代はじめ、東西冷戦の時代、南ベトナムと北ベトナムがあった頃、南ベトナムに駐留していたアメリカ軍事顧問団がまだ数千人だった頃、J.F.ケネディは 『世界の自由と平和を守る』 ため、秘密裏に、シェンクワンなどラオス北部山岳地帯にアメリカ人の軍事専門家を?を送り込み、誠実で勇敢な事で知られていたモン族を訓練し、軍隊を組織しました。すぐにおこるかもしれないベトナム戦争で、北ベトナムと戦わせるための軍隊として。

ベトナム戦争が始まると、ラオス国内を南北に通る北ベトナムの物資輸送路=ホ−チミン・ル−ト、を破壊するため、アメリカ軍は、ラオスを無差別に空爆しました。この空爆でホ−チミン・ル−ト上にあったラオスの多くの街は破壊されました。このことが(も)引き金になって、ラオスの軍事組織、パテト・ラオ(ラオス愛国戦線)も北ベトナムとともに、アメリカ軍と戦いました。

フランスの植民地だったラオスは戦後も、安定した政権をなかなか確立できず、内乱が状態が続いていました。パテト・ラオは今のラオス政府の素になった政治軍事組織の一つです。ラオスに安定した政府ができたのは、つい最近、1990年代半ばです。

ベトナム戦争が終わった時、アメリカについて戦ったモン族はラオスにとって反逆者となりました。10万人近くが迫害をおそれ難民となってタイへ逃れました。アメリカ軍とモン族の関係は秘密でありましたが、それでもアメリカ政府は秘密裏に、仕方なく亡命を認め、20万人近くのモン族は難民としてアメリカへ逃れました。戦争に巻き込まれ、そして、祖国を失ってしまったモン族はJ.F.ケネディが始めた戦争の犠牲者です。

 

ジャ−ル平原、やその周辺はアメリカ軍と「パテト・ラオ」との間で激しい地上戦もあった場所です。


1366 ラオスの旅V(37)ジャ−ル平原のベトナム戦争

 

ガイドのヤンシェン君が『見ていきますか?』と車を止めてくれました。

 

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石の壺サイト2からサイト3へ行く途中のナコ−村の道路側の松が生えた斜面にそれはありました。対戦車ロケット弾が命中し破壊されたパテト・ラオが使っていたソ連製の戦車。ふっとんだ砲塔は、30mくらい下の、家の裏庭に転がっていました。

 

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         サイト1の草原はアメリカ軍が落とした大型爆弾で開いた穴だらけでした。

 

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土地が痩せたこの地方では植物が元通りに生えるのには時間がかかります。もうすぐ飛行場辺りの窓から見えた、爆弾の跡です。どれだけ激しい空爆があったかがよく分かりました。

アメリカ軍がラオスに落した爆弾は第二次世界大戦でヨ−ロ−パに落とされたより多い、200万トン以上。不発弾となって残っている大型爆弾やクラスタ−爆弾の量は不明。

今も不発弾の爆発によって、死傷者が出続けています。ベトナム戦争が終わって30年以上が経ちましたが、ラオスではベトナム戦争は未だ終わっていません。

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