米軍上瀬谷基地の足跡
外国軍事電波傍受施設としての四十三年間、そしてその終焉
軍事評論家 西 沢 優
は じ め に
米海軍上瀬谷通信施設は、朝鮮戦争のさなかの一九五二年、朝鮮民主主義人民共和国(以下 北朝鮮と略称)、ソビエト連邦および中華人民共和国などの軍事用電波のスパイ通信傍取・暗号解読を主任務として建設された。横浜市瀬谷区と旭区にまたがった、面積二百四十二ヘクタールに及ぶ広大な施設である。上瀬谷基地には多数の各種の受信アンテナ群が林立していたが、都市化が進まなかった一九六〇年代はじめまでは、少数の周辺住民のみが米軍基地の存在を知っているだけで、その危険な軍事機能を知らされなかった。
そうした状況の中、周辺住民は生活や営農に厳しい制限を押し付けられた。微弱電波傍受のためには、受信の妨害となり得るものをいっさい排除しなければならない。このため、一九六〇年(昭和三五年)三月三十一日、日米合同委員会において、「電波障害防止制限地域」の設定が合意され、施設周辺の広範な地域を含めた九四五ヘクタールが電波障害防止制限地域に指定された。周辺住民は建築物の高さ制限をうけたばかりでなく、電機ミシンの操作から蛍光灯の使用、自動車のエンジンの点火、耕作機械の使用等生活上の細部にわたって厳しい制限を受けたのであった。
一九六〇年代後期、日本海での米艦プエブロ号だ捕事件やEC121電子スパイ偵察機撃墜事件などから上瀬谷基地の存在が明るみに出された。この当時、スパイ電波傍受施設として上瀬谷は最盛期にあった。
その後一九七二年の沖縄返還にともなう米軍基地再編により、上瀬谷の電波盗聴部隊の主力は三沢基地(青森県)へ移駐し、代わって米第七艦隊のP3C対潜哨戒機部隊(第72機動部隊)司令部などがやってきた。さらに一九八〇年代にかけて米海軍の各種の諜報部隊がひそかに上瀬谷で活動するようになった。
ところが、冷戦体制の崩壊とともに上瀬谷は激変にさらされた。ソ連邦の崩壊に伴う米軍世界戦略の再編成や、衛星通信などの通信技術の発達などによって、一九九一年(平成三年)ころから、短波受信アンテナの撤去が行われたのをはじめとして上瀬谷通信施設の大幅な機能縮小が急激に進んだ。
一九九五年(平成七年)四月には、基地内外八四〇ヘクタールの面積内に規制をおこなってきた「電波障害制限地域指定」も解除された。
同時に大規模な部隊の解隊、兵員の転出、あるいは部隊移転がおこなわれた。一九九五年六月には、戦後五〇年にわたって暗号任務を担当した「海軍保安群上瀬谷分遣隊」(「NSGA」約一五〇人)が解隊され、七月には、軍事情報の収集、分析を行う「太平洋統合諜報分遣隊」(「JICPACDET」約八十五人)は横田基地に、施設警備を任務とする海兵隊上瀬谷分遣隊(約四十人)は横須賀に移駐する等、一九九五年(平成七年)一〇月までに、上瀬谷通信施設内のほとんどの部隊が、解隊したり他の施設に移転したりした。これをもって、上瀬谷通信施設においては電波通信施設としての役割の大部分が終了した。
「通信施設」から「支援施設」へと基地の名称も変更された。
県営細谷戸団地の最上階から上瀬谷基地全体を見渡すと、かっては林立していた短波無線通信傍受用のアンテナ群は、すべて消えてなくなり、軍事基地とは思えないのどかな農耕作地の広大な空間が広がる。
今日、残されているのは、米軍家族住宅施設や厚生施設、そして併設されている米第七艦隊と第五艦隊のそれぞれの対潜哨戒機部隊司令部(CTF72、CTF57)、および第一哨戒航空団司令部が入っている地下構造を持つオペレーション・ビル(数セットの衛星通信用アンテナを装備)、そしてほかには関東地区内の多数の米軍基地を結ぶマイクロ波通信用のパラボラ・アンテナ数個をつけた通信鉄塔一基である。
上瀬谷の基地機能が大きく変化し、電波傍受のために必要とした広大な地域の必要が消滅したことは、今や、だれの目にも明らかである。
本稿は、既に米軍にとって無用になった遊休土地を強制接収されている住民土地所有者へ速やかに返還されることを念願しつつ、この「はじめに」の文でアウトラインを述べた上瀬谷基地の設立とその後の機能的変化、その隠されてきた軍事機能、そして電波傍受施設としての終焉と今日の基地機能の大幅縮小に至った約五十年間にわたる上瀬谷の黒い足跡を詳述するものである。
一 朝鮮戦争の最中、一九五二年に
米軍の外国軍事電波傍受施設として作られた上瀬谷基地
T 太平洋戦争中、旧日本海軍の施設に接収
現在まで米軍に接収されてきた上瀬谷基地の土地は、第二次世界大戦中、旧日本海軍によって使用されていた。旧日本海軍は昭和十三年、農民から大部分山林と桑園だった土地を買い上げ、太平洋戦争の開戦前夜の昭和十六年秋にはさらに強制的な接収をひろげ、約百六十八万平方メートル(五十一万坪)という広大な広さになった。横須賀海軍軍需部、第二海軍航空廠、海軍航空技術廠の倉庫施設として使用した(横浜市総務局渉外部発行『横浜市と米軍基地』、昭和五十五年六月刊、および東京平和委員会、『首都圏基地群』一九六八年刊、その他から)。ほかに弾薬庫も置かれていたとの指摘もある(神奈川平和協議会、一九六四年九月刊『基地かながわ』)。
第二次世界大戦中、旧日本軍は上瀬谷に地下施設をつくり、魚雷組立工場に使っていた、という重要な指摘もある。(米上院軍事建設小委員会のスタッフがまとめた現地調査報告書『太平洋地域の米軍基地建設活動』、読売新聞一九八六年三月九日付)
日本の敗戦後、国は十二万坪ほどの畑地の耕作権を開放しただけで、所有権は国が保留した。(前記の東京平和委員会の本)
U 一九五一年、朝鮮戦争中に米軍により再接収
一九五〇年六月、朝鮮戦争が勃発した。日本の各地の米軍施設において朝鮮民主主義共和国(以下、北朝鮮と略称)の軍隊の動きはもとよりソ連や中国などの軍事電波の傍受・分析活動を忙しくやっていた米軍は上瀬谷を接収し、それまでは横須賀基地内の傍受通信所で行っていた業務を移し、上瀬谷を最新の受信装置を備えた、最大規模のスパイ電波傍受・分析拠点を設けることにしたのであった。
その経緯を示す二、三の資料がある。
「昭和二十六年三月十五日、一旦、接収解除(昭和二十二年十月)された土地を農林省が開拓財産として地元農民たちに売り渡し手続きを進めていたころ再接収された。(最初の接収、昭和二十年八月)」(前掲の横浜市の資料)
「米軍は昭和二十六年二月、再び接収をはじめ、さらに周辺の土地まで取り上げた。そして九億二千万円の巨費を投じて、日本で最大の受信専用の施設をつくった。七十一万八千坪。」(前掲の東京平和委員会の刊行物)
「(上瀬谷基地は)米海軍が一九五一年に接収し、それまで米海軍横須賀基地の中にあった、秘密£ハ信隊を一九五二年にここに移転させた。」(前掲、神奈川平和協議会の刊行物)
V 基地周辺にさらに「電波緩衝地区」を強制
朝鮮戦争中の「特需景気」につづく日本経済の好景気を背景にして、昭和三十年代になると、上瀬谷基地の周囲に住宅や中小の工場が進出し始めた。
昭和三十二年十二月、横浜市は都市計画法にもとづき、用途指定地域として市街地造成の施策を打ち出した。翌昭和三十三年五月、日本金属工業株式会社は上瀬谷基地の周辺に、工場建設を計画した。
アメリカ軍は基地の周辺に住宅や工場が進出するのを抑えようと企図した。米軍は昭和三十三年十月、日本金属工業の工場建設を阻むべく、日米合同委員会を通じ、「当該工場の建設は米軍通信施設の機能に電波障害を与えるおそれがある」との理由で工場建設の中止を要求した。
神奈川県知事は、米軍と日本政府の要求を受け入れ、同年十二月、相模原地区内に代替地を斡旋、日本金属工業はそれに従って工場建設計画を変更した。
こうした経緯のあと、上瀬谷基地の周辺の広大な土地が、全国的に類例のない「電波障害制限地域」と指定され、住民の生活権、営業権などに重大な規制を加えられることになった。横浜市作成の資料には、次のように記述されている。
「昭和三十四年一月、米軍側は施設特別委員会を通じ『電波緩衝地区』として、地役権の設定を要求した。
昭和三十五年三月三十一日、日米合同委員会は『電波管理の見地から必要な措置を講ずることが妥当である』との理由で合意した。
昭和三十五年七月八日、上瀬谷通信施設司令官ネッパ大佐は、横浜市の用途指定計画は電波受信上重大な障害があるとの理由で取り止めるよう要請した。
昭和三十六年十二月十五日、電波障害制限地域の確定が閣議了解となった。
昭和三十七年一月二十五日、日米合同委員会は電波障害制限地域および制限基準を設定し、合意に達した。」
この間に、周辺住民は建築物の制限、電気モーターの付いた農機具や家庭電化器具等の使用を制限するなど生活権、営業権などに理不尽な制限を加える「電波障害制限地域」指定に強く批判し、反対運動を展開した。同上の横浜市資料はそれを簡潔に記述した。
「昭和三十六年五月、基地等周辺問題対策協議会が設置された。
昭和三十六年十月〜十一月、地元民は電波障害制限地域の設置に対し撤回の実力行使を行った。」
横浜市資料によると、昭和三十七年1月から米軍受信施設としての機能を維持するために設定された電波障害防止制限地域は、九百四十五万平方メートルという広大なものであった。
その後、住民の反対運動を前に、昭和四十四年三月および昭和四十九年四月の二回にわたり制限地域の縮小緩和措置がとられたが、七百二十四万平方メートルの地域は「電波障害制限地域」として長く指定され続けた。
二 一九六〇年代の最盛期における電波傍受活動
朝鮮戦争のさなか、一九五二年に広大な上瀬谷基地(FAC番号3096)(約二百四十二万平方メートル)を接収して横須賀から移駐し、朝鮮戦争後さらに基地機能の強化のために、さらに四倍以上の周辺地域を電波障害防止制限地域として取り込んで、秘密裡に上瀬谷で活動を続けていたのは、米海軍の電波傍受・分析・暗号解読の専門部隊、米海軍セキュリティ・グループ・コマンド(NSGC)であった。今でこそその秘密部隊の正体を正確に指摘できるのだが、長い間、地域住民がそれをうかがい知るものではなかった。
T 一九五〇年代〜六〇年代における上瀬谷の外観
上瀬谷基地は不気味な存在であった。
一九五二年に大規模な電波傍受施設が作られた上瀬谷が、一九五〇年代から一九六〇年代に、どんな外観あるいは様子だったかを示した調査資料がある。
「基地内には大半が北と西に向けられた一〇〇基をこえる短波固定アンテナがあり、そのほか回転指向性アンテナ約一〇基、短波帯方向探知アンテナ二基、それに横須賀海軍基地と連絡する超短波、マイクロ波無線塔二本があります。」(神奈川県平和協議会のパンフレット『基地かながわ―基地の全貌』、一九六四年九月刊)
「北と西に向けられた短波固定アンテナ一〇〇基以上、そのほかに回転性指向アンテナ、HF方探、暗号傍受、解読…」(東京平和委員会『首都圏軍事基地群』、一九六八年刊)
右の記述は、上瀬谷基地の存在に反対する立場の人たちによる、基地の外側からの観察である。この観察・調査にあたった人たちの軍事用電波傍受装置あるいは電波通信技術に関する知識の限界からか、「一〇〇基を超える短波固定アンテナ」などとオーバーな記述(注)が見られるけれども、短波傍受用アンテナの木柱や鉄柱が林立し、また短波帯方向探知アンテナ二基、その他、関東地域内の多数の米軍基地を結ぶマイクロ波(パラボラ型アンテナ使用)通信網を構成する無線塔の存在などを、全体としては正確にとらえたといえる。
こうした上瀬谷の電波傍受システムの中枢に位置したのが大規模な地下施設を持つ『作戦・通信センター』である。そこは第二次世界大戦中、旧日本海軍が魚雷組み立て地下工場に使ったところで、米上院軍事建設小委員会のスタッフ報告書が『地下に潜った通信施設』『地下施設は老朽化』と記述したところである。(前出、読売新聞、一九八六年三月九日付)
(注)ロンビック型短波アンテナは、菱形に配置した四本の木柱あるいは鉄柱で一基のアンテナが成り立つ。巻末資料Dを参照されたい。「一〇〇基をこえる…」は、空中に張りめぐらしたアンテナ線を支える木柱あるいは鉄柱の合計数だったのではあるまいか。
U 基地創設〜一九六〇年代における傍受機能の配置
今回の上瀬谷裁判において、原告側の立証努力の中で、一連の重要データーが発見され、裁判所に提出されているが、その中に一九五〇年代〜六〇年代に上瀬谷がどのように通信傍受施設を配置していたかを示すいくつかの米軍資料が含まれている。
第一は、米海軍が昭和三十六年(一九六一年)十一月九日に上空から上瀬谷基地を撮影した航空写真である。(甲第六号証)
第二は、同じく米海軍が昭和三十九年(一九六四年)十一月六日に上瀬谷を撮影した航空写真である。 巻末資料@
第三は、昭和四十年(一九六五年)九月に横浜市が作成した『米海軍上瀬谷通信隊施設周辺地域調査報告書』所収の「上瀬谷海軍通信隊付近略図」である。巻末資料A
第四は、昭和四十六年(一九七一年)三月に米海軍上瀬谷基地自らが作成した、基地内建造物とアンテナ展開を詳細に記入した実測地図である(甲第一〇号証)である。巻末資料B
この4つの資料からはっきり浮かび上がってくることは、当時
@米海軍上瀬谷スパイ通信隊の司令部や米兵宿舎などは、専用(接収)地域の北西部(現在と同じ場所)にあった。
A電波傍受のためのアンテナ配置は、専用地域のほぼ中央に「Low Band Antena」(短波帯の中の低い周波数帯を対象としたアンテナ)、および「High Band Antena」(短波帯の中の高い周波数帯を対象としたアンテナ)―この二つのアンテナは方向探知用―を設置。前記の「Low(低)バンド」と「High(高)バンド」の方向探知用アンテナを撮影した写真が残っている。一九六四年九月二十三日発行の神奈川県平和評議会パンフレット『基地かながわ』に掲載されたものである。
なお筆者は、1970年代になって上瀬谷基地の調査研究を始めた時に、この方向探知アンテナとその近くにあった傍受作業施設の残骸を目で見ているが、それは後述する。巻末資料C
そして専用地域の東南部に、花弁状に三六〇度・全周方向に向けて整然と配置された二セットのロンビック型短波傍受アンテナ群(ロンビック・アンテナ9基からなる一セットおよび同アンテナ8基からなる一セット)を置いた。巻末資料D
加えて千島列島から沿海州方向、さらに日本海から朝鮮半島北部を指向した数セットのロンビック型アンテナ。
箕(み)の形を連想させる北方と西方に向けた広帯域短波LP(対数周期アンテナ)二基巻末資料E
円錐(えんすい)形の三六〇度指向インバーテッド・コーン・アンテナ二基があった。巻末資料F
Bスパイ電波傍受作業は、合計二十四基にのぼる鋭い指向性を有するロングビック型アンテナ群、そして他の前記各種アンテナや「Low(低)バンド」と「High(高)バンド」の二つの方向探知用アンテナなどが、全体ひと組になって遂行されたのである。そしてこの電波の方向測定は他の一ヶ所か二ヶ所の米軍無線傍受基地(例えば、青森県三沢基地や北九州の雁ノ巣傍受基地〔当時、存在〕)と連携しつつ三角測量の要領で行われた。要するに捕捉しようとする到来電波は、通信内容をテープレコーダーで記録すると同時に、発信地(源)を割り出す仕組みになっていたのである。
テープに収録された通信電波は暗号解読に回される。その暗号解読作業と同時に、傍受作業全体の作戦指揮を行ってきた場所は、基地南方の大谷戸県営住宅に近い、上瀬谷作戦センターの地下施設である。
C上瀬谷での軍事用電波の傍受は、オホーツク海や日本海などの上空を超えて遠距離から到来する微弱な電波を捕捉することが必要なため、受信アンテナ周辺の電波的静粛さを保持するための措置、換言すれば到来電波を周辺環境が少しでも妨害しないような諸措置を不可避に求める。周辺住宅の生活、営業、営農や工場から出る“雑音”電波、自動車交通、高層建物などを嫌った米軍が「ゾーン1」から「ゾーン5」にいたる「電波障害防止制限地域」を設けたのはその理由からである。それは同「制限地域」を上瀬谷の受信アンテナ群を中心にほぼ同じ円形に配置した様子を、前記の横浜市作成の「付近略図」から、はっきり読み取ることができる。
D米軍や行政当局の資料ではないが、上瀬谷の基地機能の初期配置をうかがわせる重要なデータを指摘しておきたい。前述の方向探知アンテナの写真を載せた神奈川県平和協議会のパンフレット中の次の記述である。
「…問題はまず一九五四年に基地中心の方向探知アンテナから四八〇メートル南東の県営瀬谷アパーとの建設に対する米軍側の横ヤリから始まりました。」
これは現在市民が多数住んでいる県営細谷戸団地の建設計画に米軍が一九五四年に介入し、建物の高さなどに制限を加えたのは、方向探知アンテナに対する電波障害を恐れてのことだったという指摘である。
だとすると、二基の当時最新鋭の方向探知アンテナは、一九五二年の上瀬谷基地の創設時からあった可能性が高く、従って米軍航空写真その他を根拠にして前述した上瀬谷のアンテナ等施設配置が、基本的に一九五二年の運用開始時の配置であったと推定して、大きな間違いはないと思われる。
三 上瀬谷のスパイ通信傍受活動
東京湾の主要国際港に面した横浜市の市街地から内陸方向へ遠く離れた上瀬谷で、米軍が何をしているのか、これは当初はまったく判らなかった。上瀬谷基地の存在そのものが、周辺住民以外に知らされず、またマスコミも報道関心をもたなかった。
T 米空軍U‐2スパイ機に連動し作戦
上瀬谷の名前が大きくマスコミに登場したきっかけは、米ソ冷戦さなかの一九六〇年五月一日、米空軍の高高度偵察機U‐2がソ連上空を偵察飛行中に地対空ミサイルによって撃墜され、捕らえられたパイロットがソ連側にスパイ任務を告白した事件が起こり、そして同型のU・2スパイ機が上瀬谷に近い厚木基地(神奈川県大和市)から作戦飛行を行い、そのU‐2機が持ち帰るソ連軍電波の上空傍受記録や偵察写真などを上瀬谷基地でデータ分析を行っていることが明るみに出たことであった。
実は、それより半年前の、一九五九年九月二十四日、神奈川県藤沢市のグライダー練習場に不気味な黒いジェット機が不時着し、これがCIA所有のスパイ機U‐2であり、特殊任務を終えて厚木基地へ帰投する途次のものとわかった、という事件が起きていたのであった。
前出の一九六四年九月発行の神奈川平和評議会パンフレットは、次のように書いた。
「上瀬谷通信隊というのは、一体どんな仕事をしているのか謎でした。国会で問題になったとき、当時の司令官ネッパー大佐は、「無線傍受が大半の業務です」としか説明せず、謎につつまれていたのですが、一九六〇年にソ連に亡命した米国家安全保障局(NSA)の局員、ミッチェル、マーティン両氏によって、その正体がバクロされた。それによるよ、同基地は、ソ連、中国の領空を侵犯して行われるスパイ飛行に協力しており、FCM(逆レーダー。相手のレーダーと同じ電波を出して、その働きを妨害すること)をその任務にしているのです。これで厚木基地から例の黒いジェット機とよばれるU‐2型ジェット機がとび立っていた理由もよくわかるのです。」
U 在日米軍の他のスパイ部隊や米本国の諜報機関と直結して活動
当時、米軍は日本全土の各地に電波スパイ基地を活動させていた。社会主義国の電波をとらえて、水上艦艇、潜水艦、航空機、陸上兵力の動静を探る大きな触手は、稚内(北海道)、千歳(北海道)、三沢(青森)、上瀬谷(神奈川)、淵野辺(神奈川)、雁ノ巣(福岡)、波平(沖縄)の各基地である。各基地とも陸海空三軍の保安部隊要員がいり混じって専門的に傍受作業を行っていた。
基地内部では通信兵は四交替勤務。二十四時間中受信機のダイヤルを回し、社会主義国の電波を追う。長波、中波、短波、超短波から極超短波までの電波帯で、音声通信はもとよりテレタイプ・パルス波などすべての軍事電波のキャッチに努める。キャッチしたら録音し、同時に周波数、呼出し符合、電波方位、交信時間、通信量などを克明に記入し、次の発信を待ち構える。傍受電波は、「別の発信室から暗号テレタイプに乗せて、府中の在日米軍司令部(現在は横田基地―引用者注)→ハワイ→ワシントンへ送る。平文(普通の文章)をタイプすればそのまま暗号化されて電波に乗り、受信先では自動的に平文になって出てくるテレタイプの高速自動暗号システム。傍受暗号の部分は、米軍がキャッチしていることを相手側に知られないため、そのまま米軍の暗号に変えて本国の解読機関へ―そんな地道の作業の繰り返しだ」(『安保と米軍基地』毎日新聞社編、一九六九年刊)。
右のスパイ傍受通信基地の共通作業中、上瀬谷は主に短波帯だけを取り扱った。
上瀬谷基地は千七百人を超える兵員を要して、そうした作業を大規模におこなっていた。
一九七〇年の米上院サイミントン小委員会聴聞会記録では、上瀬谷基地の『部隊と任務』をつぎのように述べている。
「@上瀬谷海軍保安部隊―太平洋にいる艦隊に、直接かつ適時に海軍保安部隊支援を与えることを任務とする。この支援は、主として、高周波方向誘導、保全命令、その他海軍保安部隊司令部が命じた機能からなっている。
A上瀬谷海軍通信部(受信基地)―これは上瀬谷海軍保安部隊が発受するすべての通信のコントロールの環の役目を演じている。
B米沿岸警備隊上瀬谷通信所(注)
C米空軍マイクロウエーブ施設」
またサイミトン小委員会記録は、上瀬谷海軍保安部隊の兵員数を千三百七十名(将校八十三名、下士官・兵千二百八十七名、軍属二名、六九年十二月三十一日現在)、基地警備にあたる海兵隊百二十八人(同上)と記している。
なお他の資料では、海兵支援大隊E中隊―海兵隊の電波傍受分析部隊―二百三十二名が含まれていたと記述されたものもあった。
ほかに日本人従業員百十一人が活動していた。(一九八〇年一月三十一日現在)
注 ロランCの北東太平洋チェーンのモニター局
V 米海軍電子スパイ艦プエブロ号の作戦を支援
上瀬谷海軍電波盗聴部隊の秘密にとざされた活動は、一九六八年一月、米海軍の電子スパイ艦プエブロ号捕獲事件によってはからずも具体的かつ詳細に暴露されることになった。プエブロ号は、米国防総省直属のスパイ機関である国家安全保障庁(NSA)→米海軍保全群(USNSG)→プエブロ号の指揮系統で命令を受け、(同年一月五日)朝鮮民主主義人民共和国の北西部沿岸へ接近、電子諜報と海岸調査などを目的にして横須賀を出航、佐世保を経て日本海に入った。同艦は同年一月二十三日、元山沖の領海近く進入した時点で、朝鮮人民軍海軍によってだ補された。ブッチャー艦長以下の自白によって、スパイ作戦の一端が明らかにされたが、その中に上瀬谷基地の特殊な役割も含まれていた。
プエブロ号乗組員八十三名中、電子諜報の中核的専門家は研究将校S・K・ハリス海軍大尉を長とするNSA特殊分遣隊三十一名であったが、ハリスの部下のうち六名は、太平洋軍電子情報本部(府中)において、二十四名は、上瀬谷で三週間にわたって電子諜報訓練を受けたことが明らかになったのである。NSA特殊分遣隊は、プエブロ号艦長の指揮下になく、分遣隊長・ハリス大尉は事実上もう一人の(第二の)艦長というべき存在であった。
この作戦のためのすべての装備は、横須賀でととのえられた。横須賀を出航したあと待機していた佐世保で出動命令を受領し、現地到着後は毎日、収集した諜報を神奈川県のキャンプ淵野辺にあったNSA太平洋代表部を通じてNSA本部に送っていたことも明らかにされた。
北朝鮮軍にとらえられたハリス大尉の自白内容≠ノ関連し、当時次のような報道があった。
「『私の任務は北朝鮮のレーダー信号や無線電波をとらえ、東京・府中にある米太平洋軍の電子情報本部に報告することでした。そのため三〇人の分遣隊員を同本部と上瀬谷の海軍保安部隊(Naval Security Group Activity)に送り、訓練しました』―朝鮮通信が伝える米海軍情報収集艦、プエブロ研究主任将校、ハリス大尉の自白内容≠ナある。初めて明るみに出されたスパイ船≠ニ在日基地の関係。」(『安保と米軍基地』、毎日新聞社一九六九年刊)
プエブロ号乗組員の一人、米海兵隊下士官ハモンドは、北朝鮮に捕らえられたあと、次のように供述した。ここにはプエブロ号と上瀬谷の関係が具体的に語られていた。
「私の所属は上瀬谷アメリカ海軍安全団(注1)海兵隊支援大隊E中隊である。上瀬谷にいる無線盗聴手たちの任務は、共産国の海軍情報や外交情報を集めることである。そこでは三〇〇〇人もの特殊な人間が働いている。私が上瀬谷でやったことは、ソ連の極東地域と朝鮮民主主義共和国の港湾、海軍目標についての情報を盗聴して、記録することであった。……そうしているうち、一九六七年十二月二十三日頃、上瀬谷海軍安全団(注2)の活動に関連した任務遂行のために約三十日間、プロブロ号に勤める命令を受けた」(横浜法律事務所作成パンフレット、『上瀬谷通信基地における電波障害規制に反対する闘い』、一九六八年十一月)
右のハモンド供述の中で、上瀬谷で三千人もの多数が特殊な電波スパイ作業に従事していたと述べていることは注目に値する。上瀬谷の実際の要員は米議会委員会の調査記録(当然、軍事秘密保持を考慮)よりもずっと多かった可能性があるからである。
注1、注2、は Naval Security Group Activity, Kamiseya を、今なら上瀬谷海軍保安部隊と訳す
ところであろう。
なお、在日米軍は、プエブロ号と上瀬谷基地および在日米軍基地との関係に口を閉ざし、何も明らかにしなかった。「わずかに在日米軍司令部がプエブロには朝鮮語を話せる二人の要員が上瀬谷から乗り込んでいた℃鮪タを認めた」(前出毎日新聞社刊の本)だけであった。
W 北朝鮮に撃墜されたEC‐121スパイ偵察機を支援
一九六九年四月、米軍のスパイ偵察機EC−121が北朝鮮領空に侵入して撃墜される事件が起こった。このスパイ機は厚木基地から発進し、上瀬谷の支援を受けて作戦していたのであった。
当時、細谷戸連合会議長の山口昭三氏は、町会機関紙にレポートを書いた。
「昭和四十四年四月十五日、早朝五時ごろから上瀬谷基地から高く吹鳴するサイレン音により周辺住民は睡り(ねむり)を破られた。五十分あまりも続いたサイレン音で住民を極度の不安におとし入れた。ベトナム戦の真盛中のころ。
午後テレビ・ニュースは、米海軍厚木航空基地に駐留して朝鮮・ソ連などのレーダーなどの偵察を任務とする米海軍・艦隊航空偵察第一飛行隊所属の電子偵察機ロッキードEC−121型機が朝鮮半島三八度線沿いに北朝鮮領空を侵犯し。北朝鮮軍により撃墜されたことを伝えた。」
グアムのアガナ航空基地に本拠をもつ電子偵察機のスパイ部隊が艦隊第一偵察飛行隊(VQ‐1)厚木分遣隊であった。
一九六九年四月、朝鮮民主主義共和国領空に侵入して撃墜されたEC−121機(三十一人乗組、全員死亡)は厚木から発進したものである。
一九七〇年一月、米上院外交委員会対外公約小委員会(委員長サイミントン)において、在日米海軍司令官スミス中将は、「厚木の主要な機能は、飛行機の解体修理と、VQ‐1(艦隊第一偵察飛行隊)の基地であることだ。VQ‐1は偵察飛行隊で、現在十三機からなっている…」「VQ‐1は少数だというが、単なる飛行機〔機数は削除〕の機数以上の重要さをもっている。地上支援がきわめて大がかりなのである。…厚木には、この部隊が必要とする複雑な地上支援設備がある」との重要発言をおこなっている。
VQ‐1飛行隊は、撃墜事件のあと一九七一年七月一日に、本拠地を厚木からグアム島のアガナ基地に移し、厚木基地にはその分遣隊をおくという編成変えをおこなった。
厚木基地から発進したEP‐3スパイ偵察機の任務と活動はどのようなものであったのか。これについて、神奈川県の蒲谷俊郎氏が『基地情報』一九七七年七月号に書いたものを引用させていただく。
「任務―社会主義国(西大西洋)に対する電子偵察、このため厚木に通常二〜三機配属されているEP‐3が、毎朝八時頃厚木を離陸、北上し、ソ連、朝鮮民主主義共和国方面の電子偵察を行い、午後四時〜七時頃帰投している(途中空中給油)。電子偵察の内容は各種レーダー機能の偵察、すなはち、索敵・識別・射撃等、各用途に応じた種々のレーダーの有効範囲や死角、周波数、波形等の変化(変更)を日常的に調査し、有事の際これらに有効な電子妨害、欺瞞を与えようとしている。また各種通信の観測も行っている。これは通信内容の傍受、通信基地の所在はもちろん、使用周波数や波型、秘話方法等の変化を日常的に把握し有事に備えている。この外TVやラジオの電波、電機器具の発する障害電波なども観測し、生活・文化水準なども調査している。また集められたデーターはグアムを経由し宇宙衛星を使って本国へ送っている」
四 米海軍保安部隊(セキュリティ)部隊、NSGの任務
上瀬谷で遂行してきた仮想敵国≠ノ対する電波傍受・暗号解読活動を行ってきたのが米海軍上瀬谷保安(セキュリティ)部隊であった。
米軍は US NAVAL SECURITY GROUP DET, KAMISEYA と表記した。直訳すると米海軍セキュリティ(保安)グループ上瀬谷分遣隊となる。
米海軍上瀬谷保安部隊の活動を正確に捉えるには、米海軍セキュリティ・グループ、すなわちNGSの任務とはどのようなものかをはっきりさせる必要がある。
米海軍セキュリティ・グループ(NSG)あるいは米海軍セキュリティ・グループ・コマンド(NSGC)は、米海軍諜報副司令官(DDNI)から指揮を受ける。(司令部はワシントンDC、ネブラスカ通り三八〇一、N.W.)
NSGCは、海軍作戦部長事務所の第二〇部(海軍通信)のOP‐20‐G‐G(通信保全)として始まった。第二次世界大戦中、それはカバー・ネーム(暗号の呼出し名)Communications Supplementary
Activity Washington (CSAW)で知られた。
NSGCは、海軍シグナル諜報(注1)と通信保全(注2)に責任を負う。
(注1) signals intelligence (SIGINT,シギント)。相手側の電子的シグナル(信号)を傍受して収集した諜報情報のタイプについての一般的用語。それは通信諜報(COMINT、コミント)、電子諜報(ELINT、エリント)、レーダー諜報(RADINT、ラディント)、その他を包含する。
(注2)通信保全は、暗号や送信、電波放射などの際、秘密の漏洩がないようにする手段を講ずること。
それは海洋監視活動にきわめて重要な役割を演じ
・クラシック・ウィザード(海洋監視衛星)地上ターミナル
・クラシック・アウトボード艦船配置および
・クラシック・ブルズアイ地上配置HF‐DF(短波方向探知)システム
に兵員を提供する。
これらの活動を遂行するため、NSGCは米本国と海外に多数の作戦グループを維持する。これらのグループ(複数)は、ウィンター・ハーバー(米国メイン州)、スコットランド、日本、オーストラリア、ディエゴガルシァ(印度洋)に配置されている。(ジェフリー・T・リチェルソン著『アメリカ諜報コミュニティ』、米マサチューセッツ州ケンブリッジのボーリンジャーパブリッシング社一九八五年版から)
右の地上配置『クラシック・ブルズアイ(命中点)」は、日本の青森県三沢や沖縄県楚辺、その他世界各地の数ヶ所に配置された『象のオリ』と呼ばれるHF/DF(短波方向探知)装置をさすコード名である。「象のオリ」は到来電波からその発信点をとらえる装置であるが、しかし一ヶ所だけでは方向をつかめるが発信源までの距離はつかめない。そこで目標(発信)地点を確定するために、地球規模に分散配置された多数の「象のオリ」(ウレン・ウェーバー・アンテナ)群を結び付けて方向探知網を形成する。普通三ケ所の「象のオリ」を結合して同一の信号をとらえ、それぞれで方向を割り出し、そしてその三本の方向線の交わるところが目標地点になる。米海軍はこのHF/DF作業に「ブルズアイ」(命中点)という適切な暗号名をつけたのである。
米海軍保安部隊上瀬谷分遣隊は、こうしたNSGCの一部であり、三沢基地や沖縄・楚辺基地、その他太平洋に散在するNSGC部隊と緊密に連携しつつ主として西太平洋上とロシア沿海州、北朝鮮、中国、ベトナムなどの艦船、航空機、地上施設・部隊から発進される短波通信電波を傍受し、発信源の割り出しを行い、同時に暗号解読を行い、また米軍自身の発信する電波の軍事機密保全などの諸任務を遂行してきたのである。
五 一九七〇年代初めに上瀬谷基地機能の大改変
沖縄の施政権返還問題は、一九六〇年代末から日米間の外交・軍事交渉の焦点となり、一九七二年五月十五日、沖縄の日本復帰は実現した。
沖縄施政権返還にともない米軍は在日米軍基地の再編を行った.。この措置の結果、上瀬谷の基地機能は、一九七一年から七三年にかけて大きく変貌した.。
T 上瀬谷海軍保安部隊(NSG)の三沢基地移駐
それまで上瀬谷基地の活動の中核であった電子諜報任務の海軍保安部隊が一九七一年六月三十日までに大挙、青森県三沢基地に移駐したのであった.。
前掲の横浜市総務局渉外部資料は、「昭和四十六年六月三十日 米軍の整理統合計画により、部隊縮少、一部兵舎、倉庫等の閉鎖措置がとられた.。」と記した。
三沢基地は米空軍戦闘機部隊が配置されているが、同基地にはすでに指摘したように、巨大な「ゾウのおり」アンテナ(AN‐FLR9円形アンテナ、一九六四年建設)があり、NSA指揮下の世界有数の諜報拠点である(注)。
(注) 三沢基地の「ゾウのおり」はアメリカ三軍の電波盗聴部隊により共同運用されている。すなわち一九七〇年代には、米空軍第六九二一保安航空団、第六九二〇保安群(グループ)(指揮官大佐・将兵一千百人)および米海軍保安群三沢活動部隊(指揮官大佐)と海兵隊支援大隊E中隊(指揮官少佐)、さらに米陸軍保安庁分遣隊が任務を行っていた。
上瀬谷基地には残留した部分もあり、米海軍保安群上瀬谷分遣隊となった。
上瀬谷海軍保安部隊の主力の三沢移駐にともない、林立していた短波帯ロングビック・アンテナは、作戦センターの西南方に隣接し花弁状に整然と配置された九基を除いて、ほとんどすべて切り倒されるか、柱だけ残して受信装置を取り外された。海軍道路に近い二基の短波帯方向探知装置は破壊され、そしてその近くにあった傍受作業施設も内部装置の搬出後、大きな鍵をかけられ閉鎖された。
(筆者は、一九七三年に初めて上瀬谷基地の調査を行った際、方向探知装置の残骸に出会った。その時カメラに収めたのが、巻末資料Cの写真である。)
U 沖縄から米第七艦隊の第七二機動部隊司令部、第一哨戒航空団司令部が移駐
上瀬谷海軍保安部隊が大挙して青森県三沢基地へ移駐したあと、かわりに一九七三年二月、沖縄・那覇基地から、第七艦隊の七二機動部隊司令部、第一哨戒航空団司令部が上瀬谷に移駐してきた。この移駐計画は一九七二年十二月末に在日米海軍司令部から発表された。
「在日米海軍司令部(横須賀)は二十九日、第七艦隊所属の第七二機動部隊司令部(司令官、R・E・ファウラー少将)の参謀部を昨年二月中旬、沖縄県那覇空港から横浜市瀬谷区の米海軍上瀬谷通信隊に移駐させると発表した。
同機動部隊は、西太平洋全域で哨戒(しょうかい)活動を行っている艦艇および航空機を統括している部隊。
今回の発表によると、五十人の将兵とこれに付随する二十家族が移駐したくるだけで、艦艇や航空機は含まれない(注)。」(毎日新聞、一九七二年十二月三十日付)
(注) 右と同日付の読売新聞は「家族は上瀬谷通信隊、厚木基地及び周辺の民間借家に居留する予定。」と付加した。
当時、米第七艦隊(注)は、西太平洋とインド洋、南極海を含む地域に即応体制をもって前方展開した数隻の空母を含む数十隻の戦闘艦船や補給艦、潜水艦からなっていた。
(注) 冷戦後、アラビア海とインド洋の一部を守備範囲とする第五艦隊が新編されたのに伴い、第七艦隊の守備範囲は西太平洋とインド洋の一部へと縮小された。
第七艦隊は、70、71、72、・・・79の番号を付した十個のタスクフォースに分割、編成され、任務を遂行する。タスクフォースは任務部隊あるいは機動部隊と邦訳されている。
すなわち、第70機動部隊は空母を中心とする打撃戦闘部隊、第71機動部隊は第七艦隊旗艦を中心とする指揮機動部隊、第72機動部隊は哨戒機動部隊・・・等々である。
沖縄・那覇基地から上瀬谷に移駐したのは第72機動部隊司令部である。そもそもこの機動部隊は一九五〇年の朝鮮戦争勃発直後に、二隻のアメリカ駆逐艦と一隻の台湾海軍艦船および海上を哨戒飛行する数グループの対潜哨戒機部隊から新編成され、台湾海峡のパトロールを任務とした。その後の情勢変化により同機動部隊は上瀬谷に移駐した頃には、水上艦船はいなくなり、P‐3対潜哨戒機部隊のみになっていた。
那覇基地から上瀬谷への第七二機動部隊司令部の移駐の背景には、いくつかの要因がからんでいたと思われる。@ニクソン米大統領の訪中を契機とする米中接近、日中国交回復などの新情勢に対応した米第七艦隊の台湾海域配備水上艦隊の廃止(従来、台湾海峡哨戒艦隊は七二機動部隊に所属し、那覇軍港や台湾の基地を拠点に行動していた)A沖縄施政権返還にともなうP3対潜哨戒機の那覇基地から嘉手納への移転と那覇基地の中枢軍軍機能の自衛隊移管 (これによって第七二機動部隊司令部の移転必要性が生まれた)B空母ミッドウェーの横須賀母港化計画とニクソン・ドクトリンにもとづく七〇年代の西太平洋米軍基地構造の再編に関連した横須賀中心の第七艦隊指揮・統制体制の強化などが指摘できよう。
上瀬谷の作戦・通信センターの地下施設(注)へ、海軍少将を司令官とする第七二機動部隊司令部(司令部参謀将校を含む約50人の司令部要員)が移駐した前後に、太平洋地域に配備されていた対潜哨戒機部隊(P3ASC、一部対潜リコプター)の大きな改編が行われた。一九七三年半ば以降、太平洋艦隊航空司令部(カルフォルニア州のモフェット・フィールド)は、太平洋哨戒航空団司令部と名称を変え、直轄の数個の対潜哨戒飛行スコードロンを米本土太平洋岸に展開させるとともに、麾下の哨戒第一航空団司令部を上瀬谷に、哨戒第二航空団指令部をハワイのバーバース・ポイントに配置する体制をとった(『基地情報』一九七六年九月号の長尾正良論文「VQ<艦隊偵察中隊>と<VP陸上基地対潜長距離哨戒中隊>の配置について」を参照)。
この改編で上瀬谷の任務は一段と重くなったのであった。
それ以降、第七二機動部隊司令部が配置された作戦・通信センター施設には、『第七艦隊哨戒部隊・第一哨戒航空団司令部』と大きく書かれた英語表示と上瀬谷基地の最高位司令官が米海軍少将であることを表示するブルーの少将旗(二つ星)がポールに掲げられていた。
巻末資料Gの二枚の図は、上瀬谷基地に対する監視活動を行っていたグループが作成した作戦・通信センターの精密なスケッチ図(一九八二年当時)である。
一九七〇年代後半において、ハワイ以西の西太平洋地域とインド洋に配置された対潜機部隊は次の通りであった。(一九七八年二月公表の米軍事態勢報告による)
ハワイ 哨戒四個飛行隊 P3B三十六機、軽ヘリ対潜飛行隊 SH2F六機
アダック(アリューシャン) 哨戒飛行隊分遣隊 P3C四機
三沢 一個飛行隊 P3C九機
嘉手納 一個飛行隊 P3C九機
キュービー・ポイント(フィリピン) 一個飛行隊 P3B九機
ディエゴ・ガルシア(注) P3C三機がローテーションを組んで配置
(注)ディエゴ・ガルシアはインド南端から約一千三百キロの海上にある島。同島は英国から米国 に貸与されており、中東に展開する米軍の補給拠点、長距離爆撃などの作戦拠点にもなる。
上瀬谷の第七艦隊第七二機動部隊司令部兼哨戒第一航空団司令部は、西太平洋とインド洋における米海軍航空部隊の前方展開兵力の一翼として右のうち、ディエゴ・ガルシアに配備された三個哨戒飛行隊と一個分遣隊の所要地上施設を管理運営すると同時に、交代制で派遣されてくる総計三十機のP3C、P3Bを作戦指揮して、オホーツク海、日本海、東シナ海、南シナ海、インド洋、アラビア海の広大な地域を分担して洋上飛行作戦を行い、仮想敵国 の潜水艦や水上艦船に対する捜索・追尾、そして各種の諜報あるいは情報の収集・分析の諸任務を二十四時間体制でおこなっていたのであった。
上瀬谷基地が西アジアからインド洋のP3C対潜哨戒機部隊の作戦中枢になったのは、その主力が三沢に移駐したとはいえ、あとに残された米海軍保安群上瀬谷分遣隊などの電子諜報分析装置とその専門要員が活用できるためである。P3哨戒機は、たんにソ連原潜や北朝鮮海軍潜水艦などの音波的特徴(音紋など)その他の対潜情報収集をおこなうだけでなく、前述の厚木基地発進の電子スパイ機に劣らない電子諜報収集能力を備えているからであったであろう。換言すれば、上瀬谷基地は、厚木のVQ‐1部隊の電子情報解析施設や三沢の電子諜報部隊と密接に提携しつつ、日本海やオホーツク海の上空を哨戒飛行するP3機が収集する情報の分析・評価を日夜つづけるだけでなく、広大な西大西洋とインド洋のP3対潜機収集諜報も集中的に把握しつつ、米七艦隊の作戦の不可欠な諜報情報基地になったのであった。その背景には、上瀬谷が横須賀基地と地理的にも近く、米七艦隊の作戦指揮と諜報作戦の一体化がきわめて有利に運用できるという事情もあったであろう。
加えて、日本の海上自衛隊がP3C対潜哨戒機を導入し、米第一哨戒航空団を補完するための作戦の開始が準備されていたので、米軍上瀬谷基地の役割がより重要になることも目論んでのことであったに違いない。
一九七〇年代後半における上瀬谷基地の主な米軍部隊はつぎのようなものであった。
米海軍無線通信受信所(代表部隊)
第七艦隊哨戒部隊・第一哨戒航空団司令部 司令官、管理部、通信部、情報部(情報、航空情報、特別保安)、補給部(航空機整備を含む)、作戦部(作戦部の構成―作戦・企画課、作戦管理課。作戦統制センタ―)
ほかに航空作戦、対潜水艦作戦、現代戦、気象学、計画、即応訓練、海上作戦などの各係将校が置かれたいる。
米海軍保安群上瀬谷分遣隊 管理部。通信部(通信監視、回路管制、伝達管制、その他)。作戦部(作 戦将校、作戦主任、作戦監視将校、北東アジアTICC監視官)。電子部(エレクトロニクスの維 持、監視…)
米海軍 Current 支援群
米沿岸警備隊ロランC北西太平洋チェ―ン監視所
六 一九八〇年代にFOSIFなど新海洋情報部隊が配置
一九八〇年代に 上瀬谷基地の役割は、さらに重みを増した。「艦隊海洋監視情報施設・西太平洋」(FOSIF―WESTPAC)をはじめ、他のいくつかの北東アジア地域を担当する情報部隊の新配置がそれを示した。
一九八二年に筆者を含めた調査チームは、上瀬谷基地の中枢である地下作戦センターの正面玄関内側の壁に、五個の部隊エンブレム(記章)と部隊名が掲示されているのを発見した。(巻末資料H)
米海軍上瀬谷通信部隊は従来通り基地正面ゲートに大きな看板に部隊名を書き出して、その存在を誇示していた。
次の五個の部隊が地下作戦センターに入っていた当時の上瀬谷のテナント主要部隊であった。英文は次のように読めた。
@太平洋前方地域支援チーム、上瀬谷分遣隊 CTU 168・1・1
(注、別の米軍内部資料では、太平洋前進滞空監視追跡部隊上瀬谷分遣隊、第168・1・1任務部隊 司令部とあり、同一のものとみられる)
A北東アジア戦術情報通信センター
B米海軍保安群上瀬谷分遣隊
C西太平洋/艦隊海洋監視情報施設
D第七艦隊哨戒・偵察部隊司令官
右のなかのDは、既に説明ずみの部隊である
Eは既に説明ずみであるが、米海軍保安グループ(ネーバル・セキュリティ。グループ=NSG)の
在日部隊は、一九八〇年中頃には次のように編成(注)されていた。
米海軍保安群活動部隊(司令部三沢)
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横須賀分遣隊
上瀬谷分遣隊
厚木分遣隊
波平(はんざ)活動部隊(沖縄) |
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トリイ通信所
波平(はんざ)基地(別称、楚辺のゾウのおり) |
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(注) これは日本駐留米軍部隊の管理編成(任務編成とは異なる)ではなかろうか。軍特有の作戦遂行上の任務編成時は、右の沖縄駐留部隊は米本土のNSAと直接結びつき、特別の任務を与えられていたようだった。米誌ニューズウィーク誌の一九八二年九月六日号は、NSA(米国家安全保障局)の特集記事―『パズルの宮殿』の本の紹介を兼ねて、NSAの秘密通信作戦部Bグループの前線本部が沖縄・祖辺(そべ)にあると報じた。
朝鮮半島、中国、アジアの共産主義地域≠フ監視、暗号解読に当たるBグループの前線本部の一つがNSA直轄の総合情報処理施設〔これまで在沖米軍が統合情報処理センター〔JSPC〕と呼んできた〕のことであった。しかしJSPCがトリイ通信施設の中か、それと一体的に連結した近くの米海軍保安群(NSG)運用の楚辺「ゾウのおり」施設の中にあったのかは、軍事秘密のとばりに包まれてきた。
新しく出現した「西太平洋/艦隊海洋監視情報施設」は、米海軍と米太平洋艦隊司令部/指揮センターに直結し、西太平洋・インド洋に前進配備された米第七艦隊に諜報・情報を提供し、支援する、FOSIFと呼ばれる重要機関である。
米海軍が全地球規模で作戦する海洋監視情報システムはOSIS(注)と呼ばれる。上瀬谷のFOSIFはその下に位置し、地球を四区に分けて、ハワイ以西の西太平洋を受け持つ。上瀬谷のFOSIFはハワイの太平洋艦隊センター(マカラボ)につながり、OSISを形成する。
(注) OSISは、Ocean Surveillance Information System のこと。海洋監視情報システム。
上瀬谷のFOSIFがハワイの太平洋艦隊司令部/指揮センター/艦隊海洋監視情報センターの下位に位置する一方、ハワイを通じて米海軍の地球規模の海軍諜報、海洋監視情報も取り入れ、そして米第七艦隊司令部(洋上の旗艦)や洋上の戦闘艦船部隊、潜水艦、対潜哨戒機と緊密に情報収集あるいは情報配布の任務をおこなう仕組みは、巻末資料Iから知られる。
毎日新聞一九八四年五月二十九日付「重さ増す上瀬谷。現代電子戦争の中枢―海中監視システムから情報分析」というタイトルの記事は、コンパクトに上瀬谷のFOSIFの役割を解説した。
「FOSIFの仕組みは複雑だ。まず@海中に固定されたソナー監視システム(SOSUS)から潜水艦の音紋や海中情報を受けAP3Cがこれを補強Bさらに嘉手納(これは楚辺の間違い―引用者)、三沢に配置された『ゾウのオリ』と呼ばれる全方位の巨大なアンテナによる傍受システム(ブルズ・アイ)の情報を入力C三個打ち上げられているスパイ衛星(「ホワイト・クラウド」)(白い雲)が海上艦船の位置、方向に関する情報を送る。
膨大なこれらの情報を整理、分析して対潜作戦用艦船に提供すると同時に、ハワイの艦隊センターにも。送信は戸塚(深谷)送信所、依佐美(愛知県)通信施設と座間が分担している。
衛星を使った日常的な艦隊放送(FLTSATCOM)も上瀬谷がキーステーション。潜行している原潜はじめ、移動する洋上艦隊にとっても、固定されている地上局からの電波は、位置確認などで欠かせない。」
なお地下作戦センターの入り口に掲示された、「太平洋前方地域支援チーム、上瀬谷分遣隊」および「北東アジア戦術情報通信センター」、の二部隊さらには一九八四年版在日米軍電話簿に記述されていた、US NAVAL CURREHT SUPPORT GP(CSG) という部隊については、その任務は正確にはわからなかった。
七 八〇年代中期に浮上した艦隊作戦統制センターの新設計画
一九八〇年代に第七艦隊の作戦に寄与する上瀬谷の役割が増大したなか、さらにその役割を数段強化しようとする「艦隊作戦統制センター」の新設計画が浮かび上がった。その計画は、米議会の賛成を得られず、また日本政府による費用肩代わり計画もうまく運ばずに、結局中止になったとはいえ、一九八〇年代の上瀬谷基地の動きを見る場合、欠落させるわけにはいかない。
T 最初はアンテナ鉄塔十基立てたいと地元に施設局が説明
一九八四年五月ごろ突然。横浜防衛施設局からアンテナ用の鉄塔を立てたいという話が地元に持ち出されたが、その後立ち消え状態になった。一九八五年三月に入って、上瀬谷地区と上川井地区の計三ヵ所の私有地で業者が測量とボーリング調査を開始した。地元民が業者に問い詰めると「その筋から頼まれて作業をしている」との返答だったので、地元民は驚き、防衛施設局の説明会を開かせた(四月下旬)。席上、施設局側は「現在、耕作している土地を含め十基の鉄塔を立てるが、いつから工事に入るかはわからない。目的についても聞いていないので答えられない」と述べただけだった(神奈川新聞、一九八五年四月二十四日付)
U 企まれた上瀬谷基地の大改造計画
この年七月九日、日本共産党神奈川県委員会(石母田達委員長)と同党県議団(山下広一団長)は、米軍が上瀬谷に核戦争を前提とした「艦隊作戦統制センター」を建設する計画を進めている事実を、米国防総省が米下院に提出した「一九八六会計年度軍事建設計画」から知った。そして米軍によって進められているボーリング調査はそのためのものと記者発表した。
同「軍事建設計画」によると、「艦隊作戦統制センター」は、「危機状況下における第七艦隊の指揮・統制を行うため」の施設と明記されており、また核爆発によって惹起される通信障害の対策として「電磁パルス(EMP)防護施設」を要求し、「安定した電源」「特別のユーティリティ」(水道・電気・ガスなどの供給施設)を必要とするなど、核戦争に耐えられる施設にする計画になっていた。
「艦隊作戦統制センター」の建設計画は一九八六年一月に開始され、二千百四十九万ドル(五十三億八百余円)をかけて、三ヶ年計画で艦隊作戦統制本部ビル(六二七五平方メートル)、機械・電気ビル(八二一平方メートル)、無線受信ビル、自動通信交換センター、電子・通信修理工場、電子機器部品倉庫、緊急時用兵員宿舎と、付随する支援施設、信号弾弾薬庫(八九平方メートル)、ポンプ室(一〇〇平方メートル)アンテナ基礎などを建設するというものであった。
そのために必要な工事は、既存の建物十九棟の取り壊し、2階建て一棟、平屋建て4棟の建設とされていた。
要するに、当時老朽化していた上瀬谷基地内の主要建物のほぼ全部を取り壊して、新しい建物、しかもEMP(電磁パルス)対策の完全にほどこされた核戦争時にも機能できる電子・通信装置を収容する新ビル群に建てかえるという大きな基地改造計画であった。
V 「艦隊作戦統制センタ―」はどのような機能を果たそうとしたか
ではそこに新設される「艦隊作戦統制センター」とはどのような任務を果たす機構なのであろうか。
その実例がロンドンにあった。ロンドンに米海軍ヨーロッパ部隊司令部があり、その中に、七百四十二人という多数の軍人が勤務する艦隊作戦統制センターが置かれていた。ロンドンの米海軍の艦隊作戦統制センターは、最新電子装置をもつWWMCCS(世界規模軍事指揮統制システム〈注〉)とリンクしつつ地中海に展開した米第六艦隊を効果的に指揮する機構であった。
〈注〉 WWMCCSは、ウイメックスと読む。一九六二年に設定され、以後何回も近代化されて一九八〇年代初めには世界二十六ヶ所の基地に約三十五のコンピューターシステムを配置して運用。国家司令部(米大統領、国防長官)、統合参謀本部、太平洋軍や大西洋軍、欧州軍などの地域統合軍司令部、戦略空軍(SAC)のような「特定軍司令部」が全世界の米軍部隊を動かすためのネットワーク。特にその重要機能は核戦争の計画作成、実施にあった。
上瀬谷に設置しようとした艦隊作戦統制センターの任務と目的を、米下院歳出委員会の国防建設小委員会(一九八五年三月二十一日開催)において米国防総省のアーミーテージ国防次官補が次のように明らかにした。
「質問 日本の横須賀における艦隊作戦統制センターの目的を……説明してほしい。
アーミーテージ国防次官補 この施設は、在日米海軍による使用のために、諜報、通信およびデーターを処理し、そして情報を引き出すためのコンピューター(複数)を備える。
第七艦隊、哨戒航空団(P‐3対潜哨戒機)、空母任務部隊、海軍保安グループおよび艦隊大洋監視情報施設(FOSIF)からやってくるそれぞれの代表者たちが、太平洋における軍事作戦を追求するために場所を取り、そしてその建物に保有される情報を使用するであろう。建物は通信交換機、暗号、諜報処理の装置をそなえ、そして大量のデーター、最新の電子装置をもとに、音声〈ボイス〉あるいはファクシミリによって送・受信を処理するであろう。」
上瀬谷に設置が計画された艦隊作戦統制センターは、米太平洋艦隊司令部のそれではなく、西太平洋とインド洋へ前方展開した米第七艦隊のための艦隊作戦統制センターであった(外務省栗山アメリカ局長答弁、参議院決算委員会、佐藤昭夫議員質問、一九八五年七月二十三日)。
巻末資料Iの「海軍陸上指揮系統システム図」から明らかなように、ハワイに陸上設置の米太平洋艦隊司令部直属の太平洋艦隊指揮センターと洋上の旗艦内にある米第七艦隊司令部は直結している。ヨーロッパ方面では米大西洋艦隊司令部(司令部は米本土東岸ノーフォーク基地)と前方展開した洋上の第六艦隊司令部の中間に艦隊作戦統制センターがロンドン市内に置かれ、多数の要員をもって、ぼう大な諜報・情報および指揮統制に必要な通信・連絡をコンピューターと最新の電子・通信装置を駆使して処理し、洋上の第六艦隊司令部を支援している。
それとは違って米太平洋艦隊司令部と第七艦隊司令部の間には、第七艦隊のための艦隊作戦センターが存在しない。洋上の第七艦隊司令部は確かに上瀬谷の地上に置かれた艦隊海洋監視情報施設(FOSIF)から諜報・情報の支援をうけたが、それは作戦指揮・統制の領域には立ち入らない、限定された支援にとどまった。
W 見送られた平時・戦時の第七艦隊作戦指揮機構への変貌
これを改善しようとしたのが、艦隊作戦統制センターの上瀬谷設置構想とみてよいであろう。その背景には、一九八〇年代後半の米海軍の対ソ連海洋戦略の新開発に関連して、アメリカ軍指導層の中に従来の伝統的なヨーロッパ正面重視、および西太平洋の第二戦線的な軽視に対する若干の修正考慮が生まれたという新状況があったのではあるまいか。
既に見たアーミーテージ米国防次官補の説明によると、従来あった建物の多くが取り壊され、一九八七年度から三ヵ年をかけて、それを大幅に上回る合計七五〇〇平方bにのぼる5棟のビルディング群として新たに出現する艦隊作戦統制センターは、第七艦隊の代理をはじめおそらく複数の空母機動部隊司令官(通常は複数の空母戦闘群が西太平洋、インド洋に前方展開する)の代理、第七艦隊第七二(偵察・哨戒)機動部隊や同第七三(潜水艦)機動部隊の司令官代理など一線戦闘部隊の多くの司令官代理とともに、海軍保安グループ(NSG)、艦隊大洋監視情報施設(FOSIF)など諜報・情報支援部隊の司令官代理らが常時詰めて、効率的な協議をおこなう作戦計画立案機構である。ここでは、太平洋艦隊司令官あるいはペンタゴンからの令達等にもとづき、そして上瀬谷に戦域的規模はもとより、地球的規模で集中するぼう大かつ極秘の潜在的敵国にかんする軍事的諜報・情報を分析し、第七艦隊を構成するすべての部隊に対して情報伝達とともに、行動命令案を練り上げて第七艦隊司令官を通じて発令する、という機構なのである。
艦隊作戦統制センターは、平時あるいは危機時には、たとえば「第七艦隊に対し、対潜哨戒機P3Cなどからソ連艦隊の動向をリアルタイム(瞬時)に伝達できるようになり、戦争などの『重大局面』(予算要求書)では(そのソ連艦隊の撃破を命令する―引用者)同艦隊の指揮および管制を行う役割を果たすことになる」(朝日新聞、一九八五年八月二十九日付夕刊)のである。
このような機能を有する艦隊作戦統制センタ―の新設計画が、もしも実現していたならば、上瀬谷を核戦争を前提として、平時―危機時―戦時のいかなる局面においても、第七艦隊司令部とその部隊指揮と作戦統制機能を直接支援する、きわめて重要な陸上海軍基地に変貌させるものであった。
しかし、艦隊作戦統制センタ―新設による上瀬谷基地の大改造計画は、一九八五年七月二十四日までに、米国議会で予算案が承認されなかったために中止される見通しになり、横浜防衛施設局はその旨を地元に伝えた(朝日新聞、一九八五年七月二十五日付)。そして同年九月末には計画中止が本決まりになった。そして「国防総省筋によると、横須賀に現在ある同種の施設を当面活用する方針という」との米国防総省発表が各紙によって報じられた(一九八五年九月二十九日付各紙)。
この後米国側から日本政府に対し「日本の思いやり予算で肩代わりできないか」との打診が非公式にあったが、政府は回答を保留し(朝日新聞一九八五年十二月七日付)、やがて翌八六年三月までに日本は拒否回答を行った。(読売新聞一九八六年三月九日付)
八 一九八〇年代のその他の基地機能強化
一九八〇年代中期の上瀬谷兵員数 既述の一九八六年度軍事建設計画の文書の中に、当時の上瀬谷基地の兵員数が記載されている。
兵員 一九八四年九月三十日現在
士官七人、下士官兵一一七人、文官六人
一九九〇年末(見込み)
士官六人、下士官兵一一六人、文官六人
上瀬谷に艦隊統制センター構想が浮上した一九八〇年代の中期には、上瀬谷配置の兵員数はかなり減少していたことが知れる。
ループアンテナとヘリポートの新設 一九八〇年代後期に二基のアンテナ新設が行われた。
一九八七年五月、新型の短波方向探知アンテナ、「アペリオディック・ループ・アンテナ・アーレー」が作戦センターの南側、住民耕作地の中に新設された。
直径約二メートルのほぼ円形のループアンテナを四個並べたものを、放射状に八列、合計三十二個配列され、全体で一つの短波用方向探知用アンテナを構成する。
従来、同種のアンテナは作戦センターに隣接した米軍専用区域のフェンス内にあった。それを撤去して、フェンス外に遠く移設して、周辺の建物などによる電波干渉を防ぎ、そして新型アンテナへの換装とあいまって、受信精度を高めるためと見られた。巻末資料J
この頃、海軍道路近くにヘリポートが新設された。
これらの動きは、当時、攻撃的対ソ海洋作戦をめざすアメリカ海洋戦略の一環とみられる機能増強―ソ連艦船等の動き把握―が急速に進められていたことを示した。
一九八八年二月、細谷戸住宅近くに、「モデル530LP(対数周期)アンテナ」が新設された。同アンテナは、一基の鉄骨製垂直ポール(高さ約四〇メートル)に四面のHF(短波)対数周期アンテナを全周方向につり下げたもの。遠見には一本のポールとしか見えなかったが、近づくと船の三角帆に似たアンテナ網が複雑にポールの上から地面に向かって、末広がりに、展張されていた。
ジェーン軍事通信年鑑によると「モデル530LPアンテナ」は当時新型の短波用で、通常、陸と海、空の間の通信に使用されるもの70既述されている。上瀬谷では受信用に用いられた。(この頃、同アンテナは三沢基地でも新設された)巻末資料K
九 ソ連崩壊後、上瀬谷基地機能は顕著な縮小へ
―スパイ電波傍受任務の終焉
一九八九年二月からポーランドとハンガリーで始まった東欧の改革は、同年秋十月から十二月にかけて東ドイツ、ブルガリア、チェコスロバキア、そして最後にルーマニアでそれまでの共産党の政権を崩壊させた。そして十二月二日、マルタ島での米ソ首脳会談で冷戦終結が宣言された。一九九〇年にはソ連の改革が開始され、九一年夏にはソ連邦が崩壊しロシア共和国、ウクライナ共和国その他に生まれ変わった。
冷戦終結とソ連崩壊によって、米ソ大戦を前提にしたアメリカ世界軍事戦略、米陸海空軍の兵力構成、海外基地・展開体制は、大きな変更を迫られた。その背景にはペンタゴン予算を縮減せざるを得ない米国財政のひっ迫があった。そして中東・ペルシャ湾と朝鮮半島でのほぼ同時的な地域戦争およびその他の小さな地域紛争に対処する、というアメリカ地域戦争戦略が出現した。
こうした米ソ冷戦の終結と地域戦争戦略へのアメリカ戦略変換は、米国の財政赤字対処のための米軍削減政策とあいまって、在日米軍基地体制にもインパクトを与え、基地再編が進められた。
とくに、米ソ海軍戦の勝利を主目標に即応体制にあった上瀬谷の軍事諜報収集の諸部隊が、顕著な削減に直面した。
同時に、そこには、世界の主要国での軍事衛星通信の発達にともない、遠距離軍事短波通信を、潜在的な敵国から傍受されにくい衛星通信への切り換えが進んだ結果、上瀬谷の電波傍受機能が時代遅れになったという事情も大きく働いた。
(衛星通信時代における最も効果的なスパイ電波傍受は、スパイ通信衛星を相手方の領土・軍事基地上空を飛行させ、軍事電波を宇宙空間で捕捉するやり方で行われる。)
そんな諸事情のために、一九九一年(平成三年)ころから、アンテナの撤去がつぎつぎに行われ、上瀬谷通信施設の大幅な機能縮小が急激に進んだ。
T 次々に撤去された上瀬谷のアンテナ
一九九一年十一月 保土ヶ谷カントリークラブに隣接した上瀬谷基地内の野球場に設置された「524LPアンテナ」が撤去された。このアンテナの形状などについては第二章第U節を参照されたい。(一九八〇年八月の筆者の調査時点においてアンテナ線が切れて垂れ下がったままだったので、かなり以前から使用されていなかったと思われる)
現在でも、元野球場のバックネットの外側にアンテナの支柱の基礎部分が残されている。また同野球場の入り口付近などには、アンテナフィールドの雑草を防ぐために使用されたゴムシート、ワイヤーなどが多数残置している。
一九九一年十二月二十八日 上瀬谷のシンボル的存在であったロンビック・アンテナが跡形もなく撤去された。(アンテナの形状などきついては第二章第U節を参照されたい)
一九九二年二月 524LPアンテナのすぐ隣にあった505ディスコーン・アンテナが雪の重みで倒れかけており、既に使用されていなかったことは歴然であった。(アンテナの形状などについては第二章第U節を参照されたい)
この後、すべての支柱が倒され、長期間放置されていたが、現在は完全に撤去されている。
一九九四年四月 方向探知用の612型ループアンテナも、一九九四年四月に撤去された。(アンテナの形状などは、第八章を参照されたい)
一九九五年二月 一九八八年二月に新設されたばかりの垂直型LPアンテナが撤去された。(アンテナの形状などは、第八章を参照されたい)
これが最後まで残っていた囲障区域外のアンテナであり、この撤去によって囲障区域外にはアンテナは一基もなくなった。これにより上瀬谷基地において一九五二年以来、おこなわれてきた米軍自身の短波受信業務はもとよりロシア、北朝鮮、中国など潜在敵国の軍事用短波のスパイ傍受作業の完全な終焉が明らかになった。
U 諸部隊の大規模な解隊、移転
一九九四年九月十七日付の米軍準機関紙「スターズ・アンド・ストライプ」(星条旗新聞)は、上瀬谷基地の大規模な部隊再編成計画を報じた。
「上瀬谷の米通信基地…そのテナント部隊の中の二つが、間もなく、東京南西二〇マイルにあるこの基地を離れるかもしれない。
海軍スポークスマンによると、上瀬谷の海軍保安グループ部隊(NSGA)は四十二年間の後、来年夏、この眺めの良い基地を離れようと計画しつつある。統合諜報分遣隊(Joint Intelligence Detachment)もそれにならって、一九九五年夏、横田基地へ移動するかもしれない、と高官は語った。(中略)
公式には、われわれは来年九月までに上瀬谷での運用を閉鎖する目標で、ゆっくりとりかかりつつある≠ニ保安グループのスポークスマン、クラブトリー兵曹長は語った。(中略)
約二〇〇人の海軍兵がNSGA(海軍保安グループ部隊)で任務についている。…上瀬谷の部隊は、沖縄、横須賀、三沢、そして多分、ハワイとグアムへ再配置されるであろうと同兵曹長は語った。
統合諜報分遣隊(大部分が海軍兵から構成される八〇人の部隊)は、一九九五年十月を横田移駐の目標にしている、と匿名の海軍ソースは語った。(以下略)」
それから九ヵ月後、一九九五年六月二十六日付「星条旗新聞」は、上瀬谷基地再編の進行状況を報じた。その要点は
「西太平洋の諸部隊に暗号法サービスを提供した海軍保安グループ部隊(NSGA)は、百五十人から成っていたが、(九五年)六月一日、解隊、消滅した。」「うち三十人は横須賀での他の任務へ移った。」「同じ任務は三沢空軍基地の大規模な米海軍保安グループ部隊(NSGA)によって遂行されつつある。」
「統合諜報部隊太平洋分遣隊(Intelligence Command's Pacific Detachment)の八十五人―軍事諜報を収集、分析する―は横田基地へその作戦を併合しつつある。同部隊の移駐は十月一日までに完了するであろう。」
「上瀬谷海兵隊分遣隊(四十人)は(九五年)六月初め、横須賀海軍基地へ移動した。かれらは上瀬谷の通信・諜報部隊のために二十四時間警備を行ってきた。」
というものであった。
そして同時に、右の「星条旗新聞」は、「今なお上瀬谷に他の作戦部隊の司令部を維持している」と、上瀬谷基地に居すわっている二つの米海軍指揮機関を明示した。
「一つは、第72任務部隊(タスクフォース)である。同部隊は西太平洋とインド洋において海上哨戒・偵察飛行を実施する。任務部隊はロッキードP‐3Cオライオン航空機を飛行させる。」
「他の司令部は、第1哨戒航空団司令部である。それは日本とディエゴガルシアに三つの分遣隊をもつ。」
「上記の二司令部は・約百人が勤務する。」
さらに上記の「星条旗新聞」には見落とせない重大記事があった。
「ハワイの米海軍当局者は、上瀬谷の空いた地域の未来における使用を考慮しつつある。一九九四年の研究は、上瀬谷の位置が、そこに居残る兵員と厚木海軍航空基地の兵員で上瀬谷基地の管理―昨年秋、管理の移管が行われた―を任務づけられた兵員の両方のための戸外リクリエーション、住宅および倉庫として、適合するかもしれない、と示唆した。上瀬谷の土地の大部分は未開発である。」
米軍が上瀬谷基地の縮小計画を立てる一方、一九九四年には、余裕の生まれる基地用地を他の軍事目的のために転用を考え、その調査を始めたことは、これで明らかである。
V「通信施設」から「支援施設」へ
上記のような上瀬谷基地の大幅な機能縮小・部隊解隊・移転が進行中であった一九九五年八月二十七日、「盆おどり」のための基地公開で周辺住民に配布されたプログラムにおいて従来使用されてきた「通信施設」ではなくて、初めて「支援施設」と表記された。
翌八月二十八日の朝日新聞は、施設正面ゲートの名称看板が「無線受信施設」から「支援施設」(U.S.Naval Support Facility ,Kamiseya)に書き改められていると報道した。
この名称変更は、既出の米軍「星条旗新聞」(一九九四年九月十七日号)の中で、「米海軍上瀬谷無線受信施設として公式に知られているこの基地は、厚木海軍航空施設がこの[上瀬谷]施設の責任を引き受ける[一九九五年十月一日]、新しい家主を受けるであろう。」と予告されていたことに対応する。
上瀬谷の新名称「支援施設」が何を意味するのか、まことに不鮮明、あいまいである。新しい家主の厚木海軍航空施設の「支援施設」と解釈するのでは、第七艦隊第72機動部隊司令部など一線戦闘部隊指揮機関の上瀬谷居すわりの現状に照らすと、不具合がいちじるしい。しかし新しい名称変更は上瀬谷が従来の通信傍受施設から大きく変貌したことを確実に示している。
W上瀬谷にペルシャ湾、アラビア海担当米第五艦隊のCTF57の併設
一九九五年七月一日、中東・ペルシャ湾、アラビア海およびインド洋の大部分を責任戦域とするアメリカ海軍第五艦隊の創設―これにともない第七艦隊の責任戦域は縮小―がおこなわれた。
これにともなって一九九五年七月以降、P3C対潜哨戒機部隊、すなわち第五七機動部隊(CTF57)司令部が上瀬谷に設置された。そしてCTF57の司令官は、第七艦隊第七十二機動部隊司令官が兼任した。主要幕僚も兼任である。米海軍は二つの艦隊の機動部隊の司令官と幕僚の兼任という体制は、厳しい海軍予算から余儀なくされたように説明したが、しかし日米安保条約体制の上からはきわめて重大な変質問題を引き起こしているのである。
周知のように、一九六〇年改定の現行日米安保上第六条「極東条項」は、在日米軍の出動範囲を「フイリピン以北の極東」に限定している、というのが日本政府の公式説明であった。にもかかわらず横須賀基地を拠点とする米第七艦隊は、日本政府の同意のもとにこの第六条規定をふみにじり、ベトナム戦争あるいは中東ペルシャ湾にほしいままに出動し、戦闘作戦を行ってきた。しかしこうした違法行動はつねに日本国民の批判にさらされてきた。
日本政府は、「極東条項」の束縛を解き放って、冷戦後の新しい国際情勢の中、日米軍事同盟の役割を地球的規模に飛躍的におしひろげるために、一九九六年四月、クリントン・橋本竜太郎の「日米安保共同宣言」を調印した。これによって日米安保は条文改定のないままに「アジア太平洋安保」へ変質されたのであった。
実は一九九五年に行われた先述の上瀬谷におけるCTF72およびCTF57の併設は「日米安保再定義」の名で一九九四〜一九九五年の日米密議(その結実が「日米安保共同宣言」)で在日米軍の出動範囲を中東・ペルシャ湾まで広げる策謀と結びついていたのであり、文字通り、一九九五年四月の「日米安保共同宣言」の先取りであった。
(なお、米海軍横須賀基地内でも類似の状況がある。中東・ペルシャ湾、インド洋で作戦展開する米第五艦隊潜水艦部隊司令部[CTF54]が、第七艦隊潜水艦部隊司令部[CTF74]と併設され、横須賀を出航した米原子力潜水艦が横須賀の指揮下ペルシャ湾で作戦し、しばしば巡航ミサイル・トマオークによるイラク攻撃などを実施している。)
む す び
一九九九年(平成十一年)九月七日、衆議院議員中路雅弘氏らが、上瀬谷通信基地の遊休化の実態を明らかにするために現地調査を行った。その際、施設司令官デヴィッド・P・スミス氏の説明によれば、現在の使用面積は一〇八エーカー(施設内のフェンスで囲まれた部分)で、これは全施設面積五八七エーカーの十八パーセントであり、実に八〇パーセント以上が遊休化していることが明らかとなった。
これを受けて、十月十九日、中路氏らは、上瀬谷通信基地の返還問題について外務省と協議した際、外務省北米局日米安全保障課は、「司令官の率直な話があったと思う。事実と考えている。」と述べ、外務省としてはじめて公式に同施設の遊休化を認めたのであった。
現状において「施設内のフェンスに囲まれた部分」には、本論文では地下施設をもった「作戦センター」として記述してきた特別な地域が含まれる。
そこには依然として、米海軍第七艦隊と第五艦隊に所属する二つのp3C対潜哨戒機部隊の司令部(CTF75およびCTF57)が置かれ、西太平洋とインド洋、ペルシャ湾における新しいアメリカ地域干渉戦略の最前線海上航空戦力の構成部分として活動をしている。
今日では、P3C対潜哨戒機は新しい任務・機能が付加されたことから、米軍内ではP3C海上哨戒機と呼ばれることが多い。
P3C海上哨戒機は、二十四時間中、敵艦船・潜水艦から米空母戦闘群や水陸両用強襲上陸米機動艦隊などを空から守る任務を遂行すると同時に、「対水上戦改善パッケージ」(AIP)と称するアップグレード計画を一九九〇年代中期からほどこして、今では各機四発のハープ―ン対艦ミサイル、あるいはAGM・84Eスタンドオフ地上攻撃ミサイル(ハープ―ン対艦ミサイルの変種、トマホークの弾頭を装着、六〇マイル[約一一〇キロメートル]以上を飛行でき、地上目標を強力に貫通破壊する)、あるいはSLAM(超音速・低高度ミサイル)や短射程マベリック空対地ミサイルを搭載できる(米軍事専門誌『ザ・タイムズ』、一九九九・七・一二号から)。
P3C海上哨戒機は、海洋哨戒と対潜水艦戦のみならず、洋上の敵艦船撃破、さらにはコソボ紛争において実戦例を見たように、悪天候の中、あるいは雲におおわれた地上を移動する戦車部隊あるいは移動SAM(地対空ミサイル)車両を探知、攻撃できるようになったのである。
上瀬谷に配置されたCTF72およびCTF57が、上述したような海洋戦と対地上戦の両面において著しく強化された戦力に変貌したP3C海上哨戒機部隊の地上司令部であることの重大性、危害性(戦時には相手方からの攻撃を誘引し、住民の生命、資産を危険にさらす可能性をもつこと)を確認した上で、改めて強調的に主張したいことがある。
それはCTF72およびCTF57は、青森県三沢、沖縄県嘉手納、あるいはインド洋・ディゴガルシアなどに前線配備されたP3C実戦部隊ではなく、後方の指揮所=司令部であり、勤務要員も数十人程度の少数であるということである。こんな少人数の米軍人の配置のために広大な上瀬谷基地の存在は全く不要不当である。
筆者は、百歩ゆずって、先述した重大な危害性をもつCTF72およびCTF57の上瀬谷配備継続に当座目をつむるとしても、スパイ電波傍受・分析基地として設立された当初任務が終焉したために、現に生まれている八〇パーセント以上の上瀬谷基地内遊休地は、速やかに地元住民に返還されるべきものであると強調したい。
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