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現実存在
2000.2.26

 抽象的概念は実在として存在するのか。
 観念をもてあそんでも、現実には意味を成さない。

 では、1 2 3 ・・・という自然数は存在するのか。
 価値、真理、絶対、完全、無限は、
 時間は、空間は、
 生命は、精神は、
 音楽は、文化は、

 問題は、存在そのものの理解の問題、存在様式の問題である。
 銀河が存在する。地球が存在する。原子が存在する。等については疑義を持つ人もいる。
 服がある。食べ物がある。水がある。家がある。親がいる。子がいる。これら個別を目の前にしてその実在に疑義を持つ人は変人とみなされる。

 物としての存在は、実在についての理解の基礎である。直接感知できる物としてある。物理化学の対象として確認される。その実在性は普遍的である。
 普遍性とは何時でも、何処でも、環境にかかわらず変わらない個別の性質である。逆に特定の個別が何時でも、何処でも不変であることが時、処、環境の普遍性である。
 水素は宇宙の何処であっても、陽子を1つ核にもち電子1つをとらえている。物理法則はすべての物質に対して不変であるという等価原理は宇宙の普遍性を示している。
 そして普遍性によって不変でない物事が明らかになる。条件、前提、例外、偶然、極所、方向など。逆に蓋然性、再現性によって普遍性の程度が測られる。
 普遍的な個別の存在が実在である。「普遍」と「個別」は「特殊」を媒介として対立する概念ではあるが、実在の根拠である。逆に、実在は普遍と個別の統一としてある。まさに存在としての弁証法である。
 こうした普遍的個別としての実在を否定するのは勝手であるが、否定する人は相手にされない。ただし、物質の存在様式のより基本的階層、すなわちより普遍的存在様式では個別的実在の存在様式は日常の物の存在様式とはまったく異なる。
 量子力学によると、個別的実在の存在単位である量子は他の存在に対して粒子として相互作用するか、波として相互作用する。粒子性と波動性は相補的であり、相反するこの性質は同時には現れない。しかし、すべての量子が粒子性と波動性のいずれかの相互作用する物として実在している。また、異なる量子間でも一定の関係で相互に転化しつづけている。同じ種類の量子間では個々の量子を区別することもできない。量子の階層では、感知経験できる物の実在性とはまったく異なった存在様式がある。しかし、時間的にも空間的にもより普遍的な相互作用の存在様式である。より基礎的階層では、個々の存在様式は物理量の相互規定関係として現れる。
 実在性は物理的存在としても感知経験する実在性だけではなく、論理的に規定しなくてはならない。実在性は論理的普遍性として規定しなくてはならない。

 では生命は実在するか。
 生命を構成する物質とその機能はほぼ明らかになってきている。生物はタンパク質と核酸を基本的物質とし、タンパク質である酵素によって遺伝情報をになう核酸の物質構造を操作する。逆に酵素は核酸の配列によって定まる特定のアミノ酸の特定の配列として作られる。そうしたタンパク質と核酸の働きで生物の物質代謝がになわれ、細胞を構成し、生物個体を実現している。
 ただし、タンパク質と核酸の相互作用関係がどのようにして実現したか。すなわち生命起源の過程は未だ明らかにはなっていない。また、今日の多様な生物への進化の結果は明らかになってはいても、遺伝子の偶然の変異と生物種の新しい能力の獲得過程は明らかになってはいない。
 生物も物質である。それは確かである。しかし、生命の実在も否定できない。物質であるだけでは生物個体を構成し、新陳代謝をし、成長し、物質に戻る運動過程は個々の物理的過程からは組織できない。さらに、生物個体は個体を再構成して産み出し、生命活動を継続する。生物固体が単に物としての存在であるなら、ヒトは数年の代謝の過程でほとんど別の物と入れ替わってしまう。物質の変化する運動過程=代謝過程にあって、生物個体は恒存する。変化と不変が統一されている。そこに物としての存在様式とは違う、生命としての存在様式が実在する。物と生命との異なる存在様式の実在を認めるなら、物質そのものが物としての存在様式から、生命としての存在様式を作る実在と理解できる。「生命も物質の運動である」と存在要素に還元するだけでなく、「物質」は物理的存在様式から、より発展的な運動形態である生命の存在様式を自己組織する実在として理解しなくてはならない。

 振り返るなら、物理的過程もクオークから素粒子を構成し、素粒子から原子を構成し、原子が分子を構成する歴史過程を経てきている。そこには階層構造があり、より基本的な階層の存在様式から、より発展的な存在様式が自己組織されてきたのである。問題はこの自己組織化の過程、より発展的存在様式がどのように実現されてきているのかを明らかにしなくてはならない。生命の誕生もこの自己組織化の過程の延長として、ただし、特別な発展として問題になる。

 さらに、生命は精神を実現した。
 進化の過程で、物質代謝の制御機構として、環境への対応機構としての神経系を組織してきた。神経系が制御機構、対応機構としての存在様式を超えて、環境の変革機構へと発展することで精神を実現した。
 この精神の働きが、存在を問題にし、さらに文化を実現する。
 生命を実現し、精神を実現し、文化を実現してきたのは物質という実在である。これが機械的唯物論とは異なる弁証法的唯物論の唯物論である。

 「文化までを物質的であるとしたのでは、すべてが物質であると主張するもので、物質と観念との違いを否定するものではないか」との批判が予想できる。そう、観念の問題はこの唯物論の上で論じなければ好みの問題で終わってしまう。

 存在とは、これまで見てきた多様な存在様式の連なりである。実在とはこの普遍的な、多様な存在様式からなる個別である。個別は実在として具体的である。ここでようやく始めの問題、抽象的概念、観念の存在を問題にできる。

 自然数、価値、真理、絶対、完全、無限などは実在として感知できない。しかし、感知経験もできない存在を皆が、だれでもが知っている。皆が知っていると知っている。同じ理解ではないにしても、何を意味しているかは知っている。逆にそもそも、「存在する」「知る」「理解する」とはどういうことか、存在と認識そのものが問題になる。

 感知経験できない抽象的概念は実在として具体的ではない。「物自体は認識することができない」とまで主張されたことがある。感知経験できるのは具体的個別的実在の相互関係である。具体的個別的実在間の関係は具体的個別的実在の存在とともに存在する。具体的個別的実在がなくてはその関係もない。逆に、具体的実在の個別としての存在自体が他の具体的個別的実在との相互作用、相互関連としてある。他の実在との相互関係なくしては、そもそも実在しない。「存在する」とは実在間の相互関連の中に連関していることである。その相互関連がどのようであるかによって、具体的個別的実在の性質が実現される。他の実在に対してどのように作用するかがその実在の性質である。その関連によって我々は具体的個別としての対象を認識する。存在と認識は実在としての対象についてのことであり、実在であるからこそ存在し、認識できる。存在過程と認識過程を別の過程として論じることはできない。

 おおまかに数学的関係、物理的関係、化学的関係、生物的関係、社会的関係、精神的関係、文化的関係としての階層構造の中で、実在は自らの存在を実現する不変的関係として現われる。生物である人はタンパク質分子等であり、炭素、水素、酸素等であり、その自己を維持するものとして生まれ、成長し、生物個体を子として再生産し、やがて自己を解体して死ぬ。途中で植物になったり、石になったりはしない。経験できる具体的個別的実在はそれぞれの多様な存在様式における不変的な存在関係として恒存し、定義され、名づけられる。名はことばの体系で名詞として定義され、対象との対応関係にある。名詞は言語の体系の中で特定の対象を示す。言語の体系は相対的に閉じた体系である。日本語、英語、中国語等それぞれ相対的に閉じた言語体系である。そのれぞれの言語による物事の定義を厳密にし、完全に閉じた関係に定義しなおした関係全体が論理系である。論理系で表された対象は言語間で普遍的であり、何語にも翻訳できる。

 実在の相互関係は実在の普遍性によって普遍的な関係にある。普遍的であるから関係形式は我々に論理として認識される。対象の存在様式に応じて論理系は定義される。個々の論理関係(肯定、否定、包含関係)は実在の特定の存在様式の関係にあっては不変である。AはBでもCでも・・・他でもないからAである。不変な個々の論理関係が成立つことで実在の関係は論理的に閉じた系になる。個々の論理が論理関係をどのようにたどっても矛盾をきたさない、閉じた論理系として成立つ。ただし、矛盾が生じないのは実在の多様な存在様式のうちの一つの様式関係においてのことである。実在そのものは、具体化された普遍であり、抽象を個別として実現し、存在様式間を超える矛盾によって存在する。
 多様な存在様式の論理系間の普遍的な関係形式を論理化したものが形式論理である。

 実在の個別的対象の関係形式は、実在と共に普遍的であり、その反映である論理も普遍的でなければならない。論理は人間が知っているかどうかにかかわらず、実在としての関係を反映している。例えば円周率パイの少数展開の任意の桁の数字は人間か計算できない桁であっても特定の数である。同様に量子が波動としての性質を示し、時に粒子としての性質を示す量子力学の論理も、実在を反映している。「粒子であり、波動でもあるようなものは実在ではない」のではないのであって、実在こそが粒子として現れるか、波動として現れるかいずれかとして存在するのである。実在は経験しなくても確かな存在であり、経験しても確かでない存在でもある。確かさの基準は対象の存在様式の普遍性にある。実在は論理によって確かめられる。
 認識としては特定の実在の存在様式を反映する論理によって対象を定義しても、認識の発展によってそれまでの論理が実在の存在様式を反映していないことが明らかになることがある。
 例えば日常では物の運動は三次元の直行座標系と時間座標で論理的に定義できる。逆にこの座標によって抽象的な時空間が実在として定義される。しかし、対象が光の速度に近づくと、この座標系の論理では物質の運動を表現できなくなる。この座標系で定義された時空間を歪ませなくてはならなくなる。こうして実在である時空間の定義が変更され、拡張された。

 実在は論理によって確かめられ、論理によって表現される。感知経験の対象は論理の対象になる。感知経験の対象と論理の対象は実在を反映するものではあるが、それぞれがそれぞれの他の対象間との関連のうちにある。そして、対象を示し、考えることができるのは論理の対象である。さらに論理には独自の力がある。感知、経験できない実在の関係を明らかにする。それが実在の抽象性である。自然数、価値、真理、絶対、完全、無限などを認識し、互いに議論できるのは論理の力である。
 例えば、経験的に円の面積を計算するには、円周に接する多角形の面積を計算する。その多角形の角の数を増やしていくことによって、より正確に面積を求める。しかし、経験的に増やせる角の数には限りがあり、絶対に差が残る。しかし、論理的には無限に角の数を増やし、その極限で多角形の面積と円の面積は一致する。そして積分という論理の力によって、定義できる曲線で囲まれた面積は正確に計算できる。
 正確な円の面積を計算するには、正確な円周率パイを計算しなくてはならない。この計算の正確さは相補的である。この相補性を超えるのは論理を超える力である。

 感知経験の対象と、論理の対象という対象規定の対立を、実在の対象とすることで統一する。実在を対象とすることとは、感知経験と論理を統一する実践そのものである。具体的個別と普遍的抽象の乖離を超えて、対象をひとつの実在と認めるのは主体としての実在である。実在を具体的個別として対象とし、普遍的抽象として定義するのは主体である。実在的個別を実在的個別である主体が対象との関係として論理的に定義し、対象と主体との関係を実現し、そして変革する。対象を変えることは、対象との関係を変えることであり、対象との関係を変えることは主体としてのあり方を変えること、すなわち、自己変革である。そして、物質的、精神的代謝過程として自己実現の過程である。

 存在、認識、論理は実在において一体のものとしてある。主体である私は私であり続けるために飲食物を対象にして取込み、対象を知り、私を維持し、私を知る。私を更新し、実現し続けるために、よりよく私であり続けるために対象に働きかけ、対象を変革する。私は対象を主体化し、主体を対象化する実践主体として存在している。私において具体的個別は普遍的抽象と論理的に一体のものとして実在している。実践的唯物論とはこのことである。



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