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< 2008.12
世界観組立中
経過報告
世界観の組立状況の紹介、およびまだ世界観に組み込めていない思い付きの紹介
最近は時代に合わせてブログ風
序
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donsai @ ma3. seikyou.ne.jp
2010.2.7
ホーム・ページ
に予告を掲載した。
2010.2.6
紙厚0.08mmの書籍用紙見本をもらった。単純計算すると55mm厚の本になってしまうが、一般のPPC用紙と手触りは同じで、30mm厚に収まると期待。総重量が送付封筒を含め1kgを切ればゆうメールで340円ですむが、ぎりぎり難しいところ。
2010.1.31
MSP明朝で最終稿を作成した。PMの出力がカラーで、スミ80%程度の網がけになっているとのこと。製版の際に印刷用フォントに置き換えてもらうことにした。PDFファイルを五つに分けてもメールで送れず、CDに焼いて郵送した。見本にもらった書籍用紙はPPCより厚くて製本したら大変、代わりを探してもらうことにした。
2010.1.23
使用したDFP新細丸ゴシック体はPDFファイルへの組み込みを保証しないとのこと。同じサイズでも大きく見えて気に入っていたが、致し方なくMSP明朝に変更したら「Ryumin-Light not found」とエラーが出る。
2010.1.19
入稿したPDFファイルにフォントが埋め込まれていないとのこと。和文フォントダウンロードでビットマップを指定しているのに。アクロバットで見ればちゃんと表示されるが、文書のプロパティを見ると全く違うフォントが表示される。
2010.1.13
(株)レーヴックと出版契約。
2010.1.5
「書店流通コースの審査」中。
気がついたら、Page Makerのドキュメント設定で、プリンター設定を確定しないで変更すると版組がずれてしまう。やり直し。
PDFへの変換がうまくいかず、 Distiller 6 の代わりにAcrobat 9 PROの試用版を使ったら,Distiller 6 に戻らなくなってしまった。
2009.12.13
索引のバランスはいま一でも,とにかくできた.ページメーカーもマニアルどおりに関係ソフトをインストールしたらPDFファイル出力できた.
2009.12.9
出版依頼の仕様書検討.
2009.12.6
索引を作って構成を再検討中.
PDFファイルへの書き出しができずにいろいろ試した結果,ブック全体は大きすぎてだめなことが分かった.各章ごとに出力することで解決した.また以前からのページ・メーカーのハングアップは大きなファイルの割付の際,ゴミが紛れ込むためらしい.やはりメモリ管理に限界があるようだ.
高円寺哲学道場 第二期第2回目に参加した.
「神の存在証明」:人は神の名の下で戦争までする.人殺しまでさせる力が現実に働いており,その力の元が「神」と呼ばれるものだ.戦争ばかりでなく人間のすばらしさも導き出す力がある.
2009.12.1
原稿完成.索引,目次に取り組んで点検する.
2009.11.29
シーサイド・マラソン.今年は故障続きで10kmにトライ・ダウンの結果56分4秒.3kmまでは右ふくらはぎが最後まで保つかのおっかなびっくり.6kmで15分遅れスタートのハーフ・トップに追い越された.7km過ぎて完走できると思い,結構気持ちよく走れた.でも何の葛藤もなし.
2009.11.25
もう少し,先頭に副題を追加して「哲学の一般教養 二元世界 素朴実在に特異点である私を位置づける二元論」興味をそそってもらうのはどうだろう.
2009.11.1
PageMaker7.0.2にはほんと苦労させられる.またまた突然停止.何度繰り返しても,機械を換えても同じところでダウン.どうやら日本語フォントと半角フォントの組合せが問題らしい.それでも版下を作るにはワープロ・ソフトでは心許ないし.
2009.10.28
読み返す度にバグが見つかる.自然言語表現が自分でもよく分かっていないことを表現して確かめることであるからしかたがない.コミュニケーション過程でデバッグするしかない.ならば,期日を限って仕上げるしかない.コンピュータ言語なら定義された表現規則にしたがい,表現できないことを無理して処理することなど期待はしない.
論理空間の例.平面の絵画作品なら論理空間表現が十分な域にまで達している.高精細スキャナで読み込み,高精細プリンターで再現できる.真偽をどう保証するかが問題になるくらいに.表現技法の再現性までは,未だ期待もできないが.
2009.10.26
まいった! PageMaker7.0.2で突然ウィンドウが閉じてしまう.100kbを超えると不安定になることは分かっていたけれどそれとは違う.使用パソコンや,データの分割をしてみたが,どうも使用フォントのせいらしい.
一太郎2009とMicrosoft Office Word 2007で校正している.頼り切るのはよくないかもしれないが凡ミスにはそれぞれ役に立つ.
2009.9.15
索引作りで第一部第7章第1節個別存在を読んで「こんな物,人に見せられない」と困惑.また書き直し.
乱数は数の連続で連続する数が予測できない数.しかし人が扱う数として自然数に限られ,実用計算には桁数が制限され,実験的には再現性がなくてはならない.実用的には種数列に時刻をかければ再現性はほとんどなくなり,ゆらぎを加えることができる.数学的乱数を物理的乱数でゆるがす.さらに時刻表現の桁を適当に制限して種数列にかければさらにより完全な乱数になる.あるいは時刻表現にゆるがして得た数で桁を選択すればなおよい.そこまでしても,哲学的乱数は表現されてしまえば乱数ではなくなってしまう.
そこで意識の問題.意識は対象を秩序としてとらえる.秩序は保存するだけでも創造的である.秩序を写し取ることも秩序の創造である.まして既成の秩序に新しい秩序を組み込むことはさらに創造的である.意識は創造する器官であると言える.脳神経細胞回路網として物理的にも意識することで秩序を創造している.意識に表現することは秩序を表現することである.乱数は表現されることで秩序づけられ,乱数ではなくなる.
こういう話題はおもしろ楽しくありませんか?お金の全くかからない,老後に最適な楽しみだと思います.人との会話にならないのが難点ですが.
形式的変更.横書きなので句読点を「、。」から「,.」に変更.文字数を減らすために接続詞に読点を付さないことにした.
2009.9.2
ようやく改訂終わり.表現のゆるんだ気になるところは残っているが,残りの時間で修正する.次に索引作り.校正して出版契約.定年退職記念には間に合いそう.
2009.8.8
この間夏休みを活用してほとんど引きこもり。第一部第三編第11章思考、第12章観念までようやく筋道が整った。悩みは当然だが、書くときは「これも、これでもか」と楽しみながらでないと、読んでもらえないよな。
6日の広島記念式典で「私は、改めて日本が、今後も非核三原則を堅持し、…」という挨拶があった。これまでの非核三原則がごまかしであったことが明らかになった今、そのごまかしを改めて堅持するとは何事か。素手で平和を獲得する決意を示すべき時だろうに。
2009.6.21
半年以上の空白。伏せってたわけでも、サボってたわけでもありません。今年初めから第一部の改訂作業ですが、数年前の原稿を読み返せば甘く、穴だらけ。ほとんど書き換え故に余裕なし。本も読まず、冊子版の改訂に専心しています。第二編第8章まで進みました。第9章以降は何と言うことないとたかをくくっていたが階層性を外せず、物象、事象、現象、表象を省略するわけにはいかない。その後認識はじっくり。索引も必要だし、来年3月の退職までには本にしたい。
よくもまあ当然のごとく「合理化」を合理化できるよな。芸術は生きるためには不要である。しかし人間として生きるには不可欠である。貧しくとも、豊かさの基準だな。人類史を支えてきた真実だよ。この場合著作権て何?
2009.1.12
昨日のNHKテレビ番組『ダーウィンが来た!生きもの新伝説「歌え!テナガザル家族」』に言語の起源を見た。縄張りの主張、家族の感情交流、子への歌の教育は言語機能の基本だろう。
人は天変地異に、そして不変の対象に意味を見いだそうとする。そこに秩序の表れを見、指針にしようとする。ジンクスや諺に科学的根拠がなくても、生活の中で秩序を見いだそうと誰でもが繰り返し確かめようとしている。
2008.12.23
私はもう答えを出した。責任を果たした。世の中、何を今更。今は私の仕事が受け入れられやすい冊子の形を作ることが最後の仕上げ。ただ最初の「端緒」を分かりやすく表現し直すことで呻吟、疲れ果てて自分の文章も読めなくなった。
2008.12.20
公開するからには納得するものをと思ってきたが、納得したものでも1年も経つと不満がそこかしこに見える。大きくなって一通り目を通すのに数年かかる。それだけかかれば基本に関わる変化も起き、視点も変わる。定年を前に形を整え、2010年3月までには冊子版を作りたい。web版はこれにて切り上げ完成とし、索引づくりは冊子版づくりと並行していきたい。
2008.12.19
「到達点」ということは自己満足に止まらず、共有財産になりうる。人が到達した地点は目標になり、目標が明確になれば努力できる。ソクラテス、アリストテレス、ダビンチ、ガリレオ、等の人はどうやって高みに到達したのだろう。彼らの前にもラッセルした人々がいたのだろうか?
すごい人にどれだけ出会えるかで頑張れるし、謙虚になれる。実際に面会できなくても伝記でも、解説でも、本人の残した物でも、今は豊富に手にはいる。
2008.12.18
今の状況は、金儲けにしか金の使い方を知らない者が金を貯め込んでいる。貯め込んだ金を投資する先がなくなって、人類に絶対に必要な世界の農地の買い占めを始めているとか。
そこにメスを入れずに先が見えるわけはない。
2008.11.23
世界の二元構造を説明する「
世界図
」を描いてみた。
2008.10.8
今年のノーベル物理学賞発表で益川さんが「『九条科学者の会』の呼びかけ人に名前を連ねた。」と報道したのは見た中では日本経済新聞だけだった。政治的配慮より権力に近い目配りの確かさを示しているんだろうな。
第三編第一編第2章が仕上がったと思う。第三部は生臭いから全体が仕上がってからでないと公表できないと思う。
2008.8.20
第三部の下書きがもう少し、あと第三編を残すのみ。体系化の形式に囚われ、形を整えることでまとめようとすると苦痛でどうしようもない。書くことが楽しくなければ、読む人に喜んでもらえない。先日「
作詞家・阿久悠の世界
」を摘み観したけれど、人に伝わる表現をすることがプロなんだな。そんな余裕は有りはしない。自分が分かったと思うことを何とか表現するだけで、人に分かってもらえる表現に仕上げるなどとてもできない。
2008.7.21
この年になると人を批判することは悪いことではなく、返って指導しなくてはいけない。パワーハラスメントに対して、社会的に落ちこぼれの私が何と言って諭せばいいのか???
2008.7.8
今夜録画撮りしていた映画「白いカラス」を再度見直して、59歳過ぎてようやく世の中がどうしてこうなっているかが分かった。世の中、医学的に病気でなくても狂っている人が社会的権力を振るっているからおかしいのだ。自分中心に世の中を見ていること、自分に説明しようとしていることを自覚していな人がいる。その人達が向き合うとまったく聴くに堪えない掛け合い漫才を延々と繰り広げる。世界観を一生の仕事として取り組んできたが、理を尽くしても通じない人がいることが始めて分かった。それでも理の通じる人のために書き残さなくては。
昨日は「
アムステルダム・ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 金管五重奏団
」よかった。
2008.5.31
映画「オーケストラの向こう側」を見てきた。演奏家は訪れるかもしれない至福の時を求めて集中する。演技を交えてでも聴衆とのコミュニケーションに努めようとする。個人的な演出であっても、演奏家の義務としての演技にとどまらず、伝えたいことを表現している。なのに聴く方、見る方は持ち込んだレジ袋をガサガサ・・・。
でも今日は音楽三昧。NHKハイビジョンで15:00〜21:30まで間欠、その後も25:41から。HDD録画ができるようになって音楽を楽しむのも容易になった。それでも、ラジオではエアー・チェックは昔からあるが今となってはテレビの方が簡単。放送データを提供、共有する技術より需要側の問題か。
2008.5.5
「9条世界会議」へ行ってきた。メーデー集会に比べて若者が多かったような気がする。
第三部の改訂作業が難航中。評価版の支離滅裂さを放置することはできず再編、浄化に手間取っている。
2008.4.21
芸術家はあのように精緻な世界を描くのに、私の世界観はボロ雑巾のよう。世に問える世界観など達成できそうもない。日々の錬成度があまりにも違う。2時間も考えるとボロボロになって昼寝でもしないと再集中できない。それでも、哲学関係ならそれほど見劣りしないと自負できる。
2008.3.27
歌は歌詞も分からないから嫌いなんだけどNatalie Dessayは別世界だな。聞かせる、見せつけるでなく最高の歌を自身楽しんでいる。FM放送で聞いて、CD買って、youtube(
例えば
)で見つけて改めてすごさに感激した。まだたくさんソースがあるようだけど、今日中に寝ないと明日の仕事に差し支える。日本のマスコミで取り上げられないのは商売にならないから?
自分の声の音色は録音した自分の声とは違っている。録音した声こそ他の人々が聞く自分の客観的声である。自分が直接聞く自分の声は録音もできないし、他の人に聞かせることもできない。自分の身体を直接伝わってくる声を聞くことのできるのは唯一自分の意識である。実在の自分の声でありながら、実在の他人、録音機にとっては存在しない響きがあり、自分の意識だけが聞くことができる。音響技術的あるいは電子技術的に自分が聞く自分の声と同じ響きを作ることができるかもしれない。それでも同じであるかどうかは自分だけにしか判断できない。実在の関係を超えたところにも意識があることを、実在の関係から確かめることができる。
「論文を投稿するならNatureにするかScienceにするか」相談された。レフェリーはどうなってるの?載ったら記念に買わなくちゃ。
2008.2.28
永井 均著、岩波書店刊、双書 哲学塾「
なぜ意識は実在しないのか
」。認知関連科学の発達で再び「心身問題」に関心が高まっているようだ。私は「素朴実在に特異点としての私を位置づける二元論」。カントの「超越論的主体」と同じ関係で、違うのは「物自体」は「知りえない」のではなく『理性が「知る」こと』のとらえ方。
2008.1.13
ニコラス・ハンフリー著、紀伊國屋書店刊、「
赤を見る − 感覚の進化と意識の存在理由
」。全体のほとんど7章の内5章まで中途半端な表現だなと思っていた。「赤いスクリーン」などというが、スクリーンは白だろ。けれど、最後同じ二元論に至っている人がいたことを知って力づけられる。
そして気づかせてくれたのは「主観的現在」の「厚み」のこと。主観的現在は瞬間ではなく生理的時間の幅がある。それはワーキング・メモリの保持時間と、意識の自己対象化を実現するフィードバック・ループにかかる神経回路網の信号伝達時間によって規定されている。
2007.12.30
ロバート・キヨサキ著、白根 美保子訳、筑摩書房刊、「
金持ち父さんの学校では教えてくれないお金の秘密
」。ハウ・ツー本だと思っていたけれど、生き方をしっかり押さえている。ただ不労所得は人の収奪であり、投資は投機に至る。やはり私は「貧乏父さん」だな。
2007.12.13
「第一部第二編第6章 普遍的運動」の表現改訂が必要ときづいた。二元論を明確に表現し、分かりやすくするために。二年後を目標にしている紙版にご期待を!
2007.12.1
ジェグォン・キム著、勁草書房刊、「
物理世界のなかの心
」は流行の哲学らしいがちっとも分からん。著者の言う「心」「身」「物理的」の定義が分からないから議論を追うこともできない。最大の欠陥は無意識を無視していること。身体を動かすことは生まれてこの方の訓練でやっと身につけてきたこと。食べ、歩き、話す、等の意識的運動は訓練を経て獲得してきた能力。日々の訓練を無視して心身問題は語れないはず。
2007.11.25
江東シーサイドマラソン。今年は故障が多くてほとんど練習できず。やっとの思いで完走できた。
2007.11.6
ハイビジョン特集 天才画家の肖像「美人画・香りたつ色気の秘密〜喜多川歌麿〜」をを見た。歌麿は日本のショスタコヴィチだな。(NHKがそう思わせたかったのか?)
いつになったらネットワーク上で情報共有できるのかな。NHKは過去番組紹介にまでリンクを張らせない。ネット検索すると情報共有より誘導が多く、妨害に思える。ダビンチの「
最後の晩餐
」の提供ではがっかり。他の博物館も似たり寄ったり。歴史的な作品の著作権は皆消滅しているだろうに。
2007.10.30
吉松 隆著、筑摩書房刊「
夢みるクラシック 交響曲入門
」を読んでから、都響
第651回定期演奏会
を聴く。何となく分かった気。教科書から離れて、交響曲の世界構造を提起したハイドンの歴史的位置づけに納得できたよう。
2007.10.19
第三部は実践論だから思いついたことを書き殴れば簡単と侮っていたが、現実の重みに遅々として、もだえて。ふと今朝、気分が転換したのか、新しい詩集を始める気になった。「
愚者(おろかもの)
」。世界観は全体を説明しなくてはならず、手間暇がかかる。そこへいくと詩は一点でも完結すればできあがる。
2007.10.12
今夜の
バルトルディ・ピアノ三重奏団
コンサートでは誰もが引き込まれたよう。
2007.9.27
クラス会などに出ると動揺してしまう。教授に医者、旧称「助役」、リサイタル、120万部の本。でもホットする、チョムスキー著『
お節介なアメリカ
』購入して手元に置こう。
民主主義は直接的力にはひとたまりもない。実現には担いきれない力がいる。途方もない力がいる。それでも、しかし、民主主義には人類が持続する限り、どうしようもなく、どこにでも、何度でももたげる力がある。
2007.9.15
年取ったし、酒も飲み過ぎだし、何も創造できない、もうだめかな。このままでは鬱病にでもなってしまうのではないか。と悶々とした日々。でも分かった。 "Aha!"。 これが最終問題かな、世界観体系化における。技術的には問題山積。PageMakerでPDFファイルを作ろうとすると、設定は変えていないのに字化けするようになってしまった。細丸ゴシック・フォントの組み込み方も分からないし。
労働価値説では同じ生活財で生活している労働者の生活費は同じである。生産力が増せば単位生産物へ移る労働価値は相対的に減少する。にもかかわらず、賃金格差が生じる理由。企業間、地域間、国間で。
P.S. 先日映画「
日本の青空
」を見てきた。
2007.9.1
第31回
哲学道場
最終回。お題は「世界観」。基本として押さえなければならないことが山ほどあるのに半日では無理だな。 基本的知的経験というのがいくつかある。「Aha!体験」は基本中の基本で、学校教育で誰にでも体験してほしいことだが難しいらしい。数学的帰納、数列の収束、実数の稠密性、自然数系の完全性と不完全性、オイラーの恒等式、白ける恒真と対角線論理の意外性、レアードの4枚カード問題、様々な無限のパラドックス、空間表現としての座標系、時空間の相対性、波動と粒子の相補性、不確定性原理と決定論、色は物の性質・光の性質でもないこと、盲点を確認すること、ステレオ・グラムでの立体視、さまざまな錯覚、意識は精神活動のほんの一部末端でしかないこと、リベットの実験、熟練の技の凄み。システム設計・プログラミングで実務に使えるシステムの構築は理解力の試験、目配り、人の弱点理解を試される。仕事ではつらいデバックも楽しみならばどんなゲームよりも興奮し、没入してしまう。人の肉体的・精神的痛みを知ること、呻吟する自らの無能さ、挫折感、喪失感、高揚感、達成感も大切な知的経験である。超人、天才達の肩の上に上れたときの眺望。絶対音感、共感覚などは想像するしかないが、想像してみる価値はある。障害があっても持てる力の存在感、専門研究者の謙虚さと傲慢さ。人前だから・人前でも泣ける経験。各分野の基本を列挙すれば学部教養課程カリキュラム、標準シラバスができあがるかもしれない。「道場」として話していると人に欠けている経験が分かる。自分も見切られているのだろうか。
2007.8.29
西田 利貞著、京都大学学術出版会刊「
人間性はどこから来たか
」を手にしている。最初に「狼少年の神話」がある。狼の育児習性、乳の栄養価からして人を育てられるわけはない。にもかかわらず様々な分野の専門家さえ信じて疑っていない。とある、こうした話は我々素人に判断はできないのだから、事実とする専門家はその根拠を示すべきなのに未だに流布、放置されている。
2007.8.23
遅ればせながら映画「
夕凪の街 桜の国
」を観てきた。こういう表現をしてくれる人々がいてくれて励まされる。一方価値を認めようとしない人々が増えていることに苛立つ。
2007.8.9
映画「
魔笛
」に付き合った。居眠りせずに見終えた自分に驚き。しかし、オペラやシェークスピアは感情の戯画的表現に思えてどこがいいのか分からない。
2007.8.4
午後、第30回
哲学道場
。お題は「詭弁」。背景知識の分からない人との話は、人見知りする私としては戸惑うことばかり。
2007.7.26
二元論では意識をコピーすることはできない。一元論であっても脳神経細胞網をコピーすることができない。一般的に再生できない脳神経細胞であっても、生理代謝によって物理的に更新されている。同じ位置の神経細胞網も人によって担う機能が異なることは、脳の可塑性により明らかである。神経伝達物質の量も脳の活動状況自体によって変化している。物理的に脳をコピーできないのだから意識もコピーできない。二元論では脳神経細胞網の発火は情報の入出力に対応している。樹状突起の結びつく相手の神経細胞、シナプス結合の強さは経験によって変化する。神経細胞間の物理的結合関係をコピーできても、その結合を作り出した経験を再現することはできない。脳の記憶は人工記憶素子のように信号の意味づけが一意ではなく、経験を反映している。神経細胞網の物理的有り様と意識・記憶の有り様は写像関係にないことを二元論は主張する。
2007.7.7
午後、第29回
哲学道場
。お題は「言語」というか文法の話。文法がありながら、多様な表現を生み出せることに焦点を当てたなら哲学的になったかもしれない。
2007.6.28
橋元 淳一郎著、集英社刊「
時間はどこで生まれるのか
」は哲学道場の必読文献にしたい。色や温度が物質の性質ではなく、感覚表象であることを認めない人には受け入れられないだろうが、建設的な哲学論議をする前提知識にぴったしだ。
反粒子が時間を逆送するという表現に納得できたし、時間が実数軸で空間が虚数軸であり非因果的領域があることなど読んで良かった。ただ「実在」「意思」の概念は再定義すべきだ。「…だから○○は実在しない」ではなく「実在とは…のことである」と。「意思」を「ミーム」と同じように使ったのでは「意識と無意識」を区別できなくなってしまう。
2007.6.21
「意味」は他と区別される関係に普遍性を見出す人間の認識である。他との関係に媒介されて意味は表される。普遍性は時空間的な再現性のこと。同じ物事として繰り返し現れること。あるいは同じ物事としてあちこちにあること。
文字はインクのシミとしては言語の意味を表さない。文字として他の文字と区別されることで一定の意味、普遍的記号としてある。また書体として文全体の感じや強調箇所を他と区別して表す。ことばの媒体として漢字の場合には読みによっても他と区別される意味を表す。形態素として区別され、組み合わさる関係で文を表す。他との関係の階層に応じて意味の階層がある。階層の深さがあるいは高さが意味理解の程度を表す。「意味が分からない」のは他との関係に位置づけることができないことである。
2007.6.20
第二部
第9章 人間の生活
を改訂した。第二部までとりあえず完了。
2007.6.19
「物の形」と言うように、形は物ではない。形は物と物との関係として表れる抽象である。三次元空間で平面を一方向に曲げると稜ができそこに直線を見ることができる。幅もなく区別されるどの物にも属さない直線である。直線が交わるところに点を見ることができる。逆に直線を直線上に動かすことで平面を抽象できる。形は関係として、抽象として実在する。同様に生命も、意識も抽象として実在する。
2007.6.16
午後、第28回
哲学道場
。お題は「コミュニケーション」で「人間関係で意味を表現する者とその表現を理解する者がいて意味を共有することである」と主張したのだが、「本人がコミュニケーションできたと思わなければコミュニケーションではないし、ぬいぐるみともコミュニケーションできる」との意見あり。「意味」「価値」は人間だけのものと主張しても独断とされる。
2007.6.2
個体意識は心体の同一性、同時性として作りだされる。身体の各感覚記憶が同一性を作りだす。感覚と運動とを統合する経験によって同時性を作りだす。足先の触覚と眼の視覚は大脳皮質への神経信号伝達時間が物理的には異なるが、意識的には同時である。同一性と同時性は経験によって作りだされている。新しい運動種目を練習する時に、新しい楽器を練習する時に、同一性、同時性は意識的訓練によって獲得される。運動や楽器に限らず、生長による変化、老衰による変化に応じる同一性、同時性の感覚は日常的に無意識に訓練することで維持される。個体意識ができあがった後、肢が失われると幻肢が生じることがあるという。
2007.5.26
午後、第27回
哲学道場
。お題は「空間」。何て説明が下手なのだろう。こんなんでは本にしても独りよがりで誰も読んでくれない。空間とは自由度の組み合わせで表現できるものと定義するのが当たり前だと思っていた。自由度は2値もあれば実数もある。今日の話題では絵画の空間は平面としての二次元をキャンバスの範囲で制限し、あるいは作品によってはキャンバスをはみ出すことで自由度の次元を超える表現を試みる。さらに画材の自由度、色の自由度、かすれ等のタッチの自由度。それら自由度を時代の制約の下、作者が選択して表現したものが作品だろう。歴史的到達点で作者が選択した自由度の中で決定した値の集合として表現される作品の創造性が芸術としての評価だろう。作品のもつ次元の可能性の中でどれだけ作者の思いを表現できているかが芸術としての価値を規定する。
今朝の思いつき。(実在)世界はできあがった結果として物質と観念の二元からなる。実在世界の存在を認め、前提にするのを素朴実在論と言う。結果ではなく、世界が実現する過程、あるいは二元の関係を説明するものとして様々な哲学が生まれてきた。いわゆる唯物論と観念論の二分法。実在性を物質に求めるのが唯物論である。観念に根拠を求めるのが主観論である。観念論とは唯物論から主観論を定義した名である。唯物論も観念を否定してしまっては観念に対立し、観念を位置づける自らの物質性を失ってしまう。すると唯物論者も簡単に転向する。物質、観念のいずれからか人々は世界を説明しようとして、失敗し続けてきた。
科学は物質の有り様から観念の実現を説明しようとする。そこでの認知関係科学の成果は素晴らしい。逆に、観念から世界を説明しようとするのが宗教である。哲学は物質と観念の関係を説く。
科学では物質の相互作用として化学進化が始まり、生物進化を経てヒトが生まれた。ヒトは身体を制御することで中枢神経系を発達させてきたほ乳類の一種である。ヒトは身体を制御し、個体として方向づける意識を獲得した。意識は意識自らをも対象として意識し、記憶することで自意識を作りだした。記憶される意識は感覚の作りだすイメージ=表象である。表象世界は物質世界の写像ではなく、身体制御を統合し方向づけるための表現である。意識は自らの身体が作りだした表象世界での自らを説明する観念そのものである。限られた能力で説明のために無理をするから錯覚も生じる。こうして物質世界に物質ではない観念世界が出現する。物質は自らを対象化し、再帰することで、特異点に観念世界を創造した。対象化を再帰することで物質は物質ではない物質関係を保存する観念を作りだし、二元世界を創り上げた。物質と観念は特異点である意識で連続せず、別の「元」を構成する。特異点で意識は無意識と連続し、また区別される。人の意識は自らの観念世界を物質世界に重ね合わせることで実在感を確かめる。重なり合う個別対象の実在感の記憶が「クオリア」である。
二元からなる世界を説明する方法は3種類ある。第一の唯物論での説明は階層論と進化論である。第二の観念論からの説明は根拠がないので何でも有りの規定不能な好みの問題になる。ただ、物質を説明しようとすると現実的ではあるが、観念ではない不可知の「物自体」を想定しなくてはならない。第三は自意識の身体との統合に依存する。自意識が自らを観念世界として限定し、身体での局在として位置づける。自意識は生長過程で人間関係の中で育てられ、コミュニケーションによって実在とつながっている。物質的にも、意識的にも生活の場である社会関係に、人互いを意識することで自らを意識して実在世界でのつながりを確認する。人との関係で形成される観念世界だけを取り出せば「共同主観」という観念世界を描ける。
だいぶすっきりまとめることができた。この視点で「世界観」をもう一度整理し直さなくては。また大変なことになってしまった。
2007.5.19
正高 信男著、岩波書店刊「
ヒトはいかにヒトになったか−
ことば・自我・知性の誕生
」にも歌から言語が成立したとある。他に、身体的「痛み」をコミュニケーションすることで心的「痛み」が形成されるというのもおもしろい。自傷行為は心的「痛み」の確認のためか。他人を平気で傷つける事件が多発するようになってきたのも心的「痛み」の形成が不十分であるからではないか。「数センス」もおもしろい。動物にも数量を処理する能力があり、人間は言語による記号処理で質的に動物を超えたという。ただし、動物が数処理できる見せ物を例としてあっさりと紹介しているのはいただけない。
2007.5.12
コーデリア・ファイン著、草思社刊「
脳は意外とおバカである
」。実験心理学の知見の紹介はおもしろい。ただ、意識と無意識あるいは非意識とを対立させてとらえるのは西欧的、近代合理主義、大衆迎合主義というかいただけない。人間理解、意識理解の肝心な点だから。
2007.5.6
第二部
第8章 社会発展と歴史
を改訂した。経済学を学んだ者として「世界観での経済」は大変に書きにくかった。あと1章。
2007.4.22
歌は苦手だけれど昨夜はゾクゾクした。カイサ・ランタ
ソプラノ・リサイタル
。25曲とアンコール1曲をきれいな声で歌いきってしまうのだから。
2007.4.20
今朝の閃き。自然科学者が観念論に陥ってしまうわけ。あるいは、自然科学者が宗教を信じたままでいられるわけ。自分たちが理解した世界が現実世界であると思い込んでしまうことによる。「理解」が観念であることに気がつかない、あるいは観念であることを認めないから。だから、「理解」の対象である世界が実在するという素朴実在論をバカにする。「理解」は感覚情報から構成した観念でしかない。論理実証主義、コペンハーゲン解釈、共同主観もみな同じ原因による観念論である。脳科学者ですら観念論に陥ってしまう傾向にあるから「理解」の力はすごい。頭のいい人程自分の論理性、理性に溺れてしまう。論理は「理解」を説明するための表現手段でしかないことを理解していない。
自分の身体は実在世界に存在する。自分の身体は実在世界で運動している。それを感じ、解釈しているのは意識であり、その理解は観念であり、表象として表現されている。理解した表象世界は観念であるが、観念としてのみ、表象としてのみ実在する。表象世界を反省することで、実在世界の秩序関係を論理関係に射影する。理解する意識が「主観」である。だから意識は主観を客観化して実在世界を理解しないといけない。
このところ朝の閃きは冴えている。年度初めで忙しくしているから、大脳も活発なのかな?次々と問題が生じ、苛つく程なのに。
2007.4.15
今朝の閃き。次元の自由度は他の次元に対しての変化可能性としてある。ゼロ次元では変化のしようがない。一次元でも可能性だけで、変化は実現しない。複数次元間で変化可能性は時空間関係を実現する。特に時間次元と組み合わさることで空間次元の運動が実現する。空間一次元と時間次元によって直線運動が実現する。実在論的には運動によって時空間次元が実現する。高次元は他の次元を不変と仮定し、捨象することで低次元に写像することができる。
2007.4.14
今朝の閃き。自意識である「私=主観」は私にとって絶対である。私は私を自己対象化するのだから私にとって絶対である。意識のない時には私を意識できない。私でない他を対象に意識する関係でも、対象化する私は絶対にある。私は他を対象にする関係でも対象化するものとして、他と区別される私を再帰対象化できる。私にとって私と他との関係は絶対であり、恒真=トートロジーである。これが二元論である。
対象である実在世界は一元であり、一元である実在の中に他の元を探して見つかるわけはない。再帰対象化、自己対象化という矛盾によって自意識は実在世界の元を超える特異点としてある。
意識が感じることができるのは感覚だけである。自意識が意識する世界は意識が感覚によって構成する表象世界である。感覚だけから構成される表象世界とその対象である実在世界が二元をなして重なっている。絶対的な私と他との関係が、世界内での自分と世界との相対的関係に重なっている。私の対象である実在世界に依拠することが素朴実在論である。相対的な客観世界での関係と絶対的な私と他との関係が重なっている感じが「クオリア」=実在感である。
次に他である実在世界はどの様であるか、その実在世界で私はどの様であるかが客観的な世界のとらえ方である。そこでは科学が導き手になる。
自意識が実在世界の次元を超えている特異点であることを認めないからコペンハーゲン解釈や、論理実証主義が現れる。
2007.4.13
次回の哲学道場は「空間」とのことで今朝、寝床で閃いた。時空間は人が感覚情報に秩序を見出す関係形式の枠組みとして構成されている。だから高次元空間や虚数、無限を感覚的にとらえることができない。理解が可能なのは論理によってである。
時空間の存在を問うことは意味がない。時空間は存在の形式であって、存在は相互作用の現象形態である。人が感じることのできる相互作用は電磁気力と重力の組み合わせである。
時空間の一次元である時間を他の空間次元の表現で俯瞰するから混乱する。時間は線のような連続体ではない。過去も未来も表現はできるがそれとの相互関係はありえない。次元は自由度であって、時間の自由度を空間の自由度で比喩すると誤解する。
2007.4.12
久し振りの感動。
オレグ・マイセンベルク
:ピアノ・リサイタル。おじさんも格好良く生きている。感動というのは、これまでにない経験によって得られる。人それぞれに、様々な分野で、多様な基準で、これまでにない経験がもたらす感動が人生を豊かにする。感動の感受性は慣れたり、干からびるのではなく、経験によってより豊かな階調を発見できるようになる。
ということで、哲学道場と称するからには自己主張のおしゃべり場ではなく、常識を破る場にしないと意味がない。この、えげつない賑やかな閉塞状況をもたらした常識、なれ合いを破れるように。
2007.4.7
午後、第26回
哲学道場
。お題は「幸福」の計量であったので、異なるであろう私の視点
【社会生活】
を抜き書きして提示した。一部分を取り出すと結構支離滅裂な表現になっているので我ながら驚いた。当座は、意外にも「自己実現」が理解できないと言うことで盛り上がってしまった。改めて通して読んでもらえれば、当たり前のことしか言っていないことを納得してもらえると思うのだが。
2007.3.24
午後、
第25回哲学道場
。お題は「夢」
2007.3.18
今年は
荒川市民マラソン
を最後まで走って速報値NET 4:38:18。健常者なら10kmは練習しなくても走れる。練習すれば20km走れるようになる。20km走れてペースさえ無理しなければフル・マラソンを走れる。ペースが難しい。こんなでは走っている気にならないと思うくらいのゆっくりペース。それでも25kmを超えると脚に効いてくる。練習でも本番でも無理をしたらとても走れない。競技などまったく別次元の話。今回は2月末のルスツこぶスキー「落とし込み」とやらで腰を痛めて練習できなかったが何とか走りきった。医者には「歳だから元も子もなくす。振動を与えるのが一番悪い」と止められたが。
2007.3.10
「神」は退屈だろうな!すべてを知っていて好奇心もないだろうし、何でもできて成長の喜びも味わえないだろうし。
検索ロボットは一字一句読んでかなり良く
評価
してくれる。(評価基準がブラックボックスで、営業的に操作されているらしいが、私のサイトは金儲けとは無縁。)今の日本には受け入れられないが、未来はあるのかも知れない。
2007.2.18
意識は常に一つしか対象にできないこと=注意が一つの物事しか対象にできないこと=自己意識=主観の唯一性の説明。ネッカー・キューブの対立する解釈の一方しか意識することはできない。立体解釈の二つを同時に見ることはできない。
自己意識経験の記憶が自己同一性としてある。寝た後も自己意識経験の記憶が残っているから自己同一性が保たれる。
2007.2.17
やはり「秩序」が肝心。実証は簡単。飲み食いを止めてみればいい。心身とも秩序が崩れる。守らなくては秩序は崩れる。秩序を守り、創るために働き、学び、休む。心身も、社会も、自然も同じ。妻に話してもキョトンとしている。
2007.2.14
6ヶ月かかってようやく
第7章 人間社会
を改訂した。誰も見ることのできない人間社会を世界観に観る。不十分でも、もうこれ以上時間をかけられない。
2007.2.3
第24回
哲学道場
。お題は「性愛」で思った通り、「若者が何を」と言った感じ。家計と家族の一致の必要性を主張したのみ。それすら独身者にはピントはずれに思われるらしい。生物進化史での性分化など話題にもならず。子宝に恵まれない人もいるが、
子離れ
までを経験して始めて夫婦の関係を語れるのだな。その頃には精根尽きていることが多いが。それぞれの事情を哲学しても始まらない。それなりに事実を検証してからでないと哲学は始まらないが、そんなことを期待したら哲学も始まらない。
2007.1.28
自分が存在していると感じている世界が感覚が作りだした表象であるように、歴史も記憶が作りだした知識構造である。過去は存在したのであって今は存在していない。同様に自意識も表象と対象とが十全に重なり合っている経験の記憶である。
盲目は暗闇ではない。晴眼者の視界の外が暗闇ではないのと同じはずである。
2007.1.20
第23回
哲学道場
。
2007.1.13
我が意を得たりというか、残念ながら先に越されていた。
前野 隆司
著、筑摩書房刊、「
脳はなぜ「心」を作ったのか
」。1983年発表のリベットの実験を紹介している(p74)というので読んでみたらドンピシャ!私の世界観が特異なものではないことが、当然の帰結であることが分かるでしょう。
これ以前の「経過報告」
donsai @ ma3.seikyou.ne.jp