「世界観」の発展的要約



市川 徹

リンクは「世界観体系化の試み」の当該箇所です。

 



はじめに
 都立大学なら話し相手を見つけられるのではと期待して17年前に転勤して来ました。1995年に「世界観体系化の試み −評価版−」を作りました。見てもらえそうな先生、仕事上でお世話になった先生、労働組合関係者、これまで著作等をとおして勉強させていただいた学外の先生等、思い当たる方々にお送りしたのですが、また、インターネットをとおして日本語ではあっても世界から読んでもらえる環境を整えたのですが、残念ながら話し相手は見つかりませんでした。それぞれのお仕事で忙しい中、素人に付き合ってもらえると期待する方が常識がないということでしょうか。話し相手がいないという状況は、不健康であることを再確認しています。
 仕事上の行き詰まりもあって、心機一転、新しい職場でやり直す事にしました。これまでの総括として「評価版」の要約と、その後の新たな論点を整理しておくことにします。
 可能であれば、何年か費やして「世界観の組立方」として改めて問いたいと考えています。

************************ 以下 「発展的要約」本文 ************************

 「世界とは何か?」 「真理は存在するのか?」
 と答えを探すと結局、その疑問とする「世界」「真理」「存在」という言葉で何を意味し、何を求めているのか自体が問題になってくる。
 問題が定まっていなくては、どのような答えを与えられても、納得できない人が、納得できない部分がでてくる。対象を明らかにするには、自らをも明らかにしなくてはならない。
 まずはすべての物事全体の中に問題を位置づけ、意味づけることが必要になる。
 科学的世界観の体系としての「哲学」が求められる。

 

【存在形式としての関係】

 世界について、あるいは何かについて考え、語り、読めることは存在についてであり、存在によって可能である。
 「私自身に問う」ことは、問う「私」と、問われる「私」の存在があって、関係している。「私達」は「書いている私」と「読んでいる私」、その他も含む「私達」の関係がある。また、「私」と問題にしている「言葉」の関係もある。「言葉」と言葉の意味している「もの」との関係もある。その先には「もの」と「もの」との関係が広がっている。
 「私」と「他」の関係としてそれぞれの「存在」を区別し、相互に「他」である「存在」として「全体の関係」をとらえることができる。この様々に「関係」することが「存在」していることである。
 この様々な「関係」の全体が「世界」を意味している。
 この様々な「関係」のありかたが「真理」である。
 ここですべてが終わる。

 しかし、とりあえずの終わりである。これからは「真理」の中身を求めて、「世界」の「関係」のあり方を確かめる。ここから「哲学」の実質が始まる。

 

【観念論】

 「私」を基準とする「主観的観念論」、あるいは「独我論」の立場もある。
 「私」がすべてであるなら何も始まらない、他を感じることも、考えることもない。
 「私」を基準とした場合、「私」がどこにいるのか、いつからいつまでいるのかが定義できない。「私」以外の存在との関わりを定義できず、不可知論に至る。

 また、「私」と「私」以外の存在とを対立的に区別する「客観的観念論」の立場もある。「私」という意識、あるいは「精神」「魂」と対象とを対立的に捉える二元論である。この立場では「私」以外の(=他人の)意識、「精神」、「魂」と「私」との関係も成り立たないか、成り立ってもそれぞれの認識、理解が一致しているかどうかすら保証されない。世界あるいは真理はそれぞれの「私」の解釈の数だけ存在してしまう。そして私には、「私」と「他」とをどのようにして感じ、どのようにして考えることができるのか、何の手がかりもえられない。

 私はこのような観念的な存在ではない。
 「私」は「他」との関わりによって私であり、他に関わることによって私を実現し続ける。他によって「私」は説明され、他と同じ世界の一部として「私」は存在する。
 生理的物質代謝としても、免疫系としても、認識としても、文化活動においても、「私」は「他」との相互作用、同化と異化の統一された過程として生きている。
 「私」も「他」も同じ普遍的存在の一部として存在する。

 

【科学的認識】

 多様な「関係」をその質に分けて科学が確かめようとしている。物理学、化学、生物学、社会学、政治経済学、法学、美学、宗教学、数学等。
 ただし、自然科学者の中には「社会科学、人文科学などは科学ではない」との主張もある。さらには生物学すら「科学になっていない」との主張もある。その真偽はともかく、個別の科学がそれぞれの対象の関係を探求し、関係を法則として定式化しようとしている。
 個別科学の対象については個別科学の成果から学ぶしかない。個別科学の成果を学ぶことによって、世界の個々の関係を学ぶことができる。これまでの偉大な哲学者の洞察力を持たない我々にも、科学は世界を理解しやすくしてくれる。

 最も単純な世界の関係は物理的関係である。世界のどこでも、宇宙のどこでも同じ関係として普遍的な物理的存在形態がある。宇宙のどこでも同じ物理法則が成り立つ。同じ物理法則が成り立つから、同じひとつの宇宙であると言える。

 物理学によれば技術的に単独で取り出すことの不可能なクォークによって物質の基本的単位が構成され、これらは光などを交換することによって4つの相互作用を実現している。しかも、それら物質の構成単位は、相互作用の媒介物質も粒子であるとともに波としての性質をもち、運動している粒子の位置は確率的に推測できるだけである。空間も時間もそれらの運動の関係形式として現れる。

 この様に日常的感覚からすると、とらえどころのない、非実在的な存在形態が現在の物理学の描く世界の基本的有様である。しかし、世界観を問題にする我々にとって重要なことは、物理学が扱えている世界の物理的存在形態は、物理学が解明してきている以外にはないということである。我々の物理的存在のレベルでは、これ以外にはありえない。物理学が扱っている範囲を超えた世界からの、我々の存在レベルへの個別的作用はありえない。我々の宇宙以外の例えばマザー宇宙の存在、相互作用が明らかになったとしても、それは我々の宇宙全体との作用であって、我々の宇宙内の個々の相互作用に影響を与えるものではない。

 地動説が明らかになったからといって、われわれが地上で生活できなくなったわけではない。相対性理論が明らかになったからといって、月まで行って還ってきても家族も友人も待っていてくれる。量子力学が明らかになったからといって、ブラウン管でテレビを見ることができる。
 世界観を問題にするときには、個別科学の最先端の成果のすべてを完全に理解する必要はない。それは不可能なことである。個別科学全般の成果は、それぞれに可能なだけ世界観における位置づけ、意味づけが理解できればよい。
 ただ、個別科学の成果を無視してはならない。個別科学の成果を勝手に解釈すること、拡張解釈することは当の科学者も含め慎まなくてはならない。
 個別科学の発達によって、世界の有様はよりよく分かるのであって、今の有様が成り立たなくなるわけではない。個別科学は世界についての理解をより普遍的に発展させているのである。「パラダイムの転換」によってこれまでの世界が、別の世界にとって代わられることはない。今わかっている世界の物理的有様は、宇宙の普遍的有様である。

 

世界観の対象とする世界の関係


【世界観の構成】

 世界観の構成は概観すると図「世界観の対象とする世界の関係」のようになる。
 世界観は世界の存在を基礎にして成り立つ。存在は世界と世界観の基本であり、第一の段階である。第二段階で世界と世界観の関係である認識が問題になる。第三段階で世界観を世界に示す論理が問題になる。存在を基礎に認識があり、認識を整理して論理が成り立つ。認識は存在を対象とするが、認識自体も存在の一部である。論理も認識に基づくが認識の一部であり、やはり論理も存在に基づく抽象化された存在関係である。
 図に重なり合った3つの領域で示す存在、認識、論理は世界観を構成する3つの段階であり、また相互に依存して、統一されて世界観全体を成す。

 

【存在の普遍性】

 すべての物事に共通している性質は普遍的な性質である。「有る」ということは、世界のすべての物事についての普遍的な性質である。
 「有る」という性質がない物事は世界には無い物事である。それは物事ですらない。
 有る物事が「有る」のは、他と関係しているからである。「有る」すべての物事は、他の「有る」物事と関係している。
 「有る」物事の関係のすべてが、全体の関係であり、世界のすべての関係である。
 すべての物事は他と関係することによって、世界全体の関係に関係している。
 すべての物事は他と関係することによって全体と関係している。
 すべての物事は、世界全体の関係の中で区別される物事として存在する。
 他と関係しない物事は存在しない。孤立した物事は存在しない。
 気まぐれに一時だけ関係する存在もない。関係のし方、現れ方は変化しても、関係、存在は保存される。

 

【第一段階.存在】

 世界観の基礎となる存在は、では最下層の全体としてある。この図が世界観の対象のすべてである。
 存在するすべての物事は他の物事との相互作用として他と関係し、全体と関係して運動している。
 個々の物事は相互作用によって他と区別される部分として存在する。物事自体が相互作用する運動の現れであり、また他の物事と相互作用し、運動し、存在している。物事があって相互作用するのではない。
 物事の相互作用はひとつの、一種類の関係だけではない。個別科学の分析過程では個々の対象をひとつの相互作用の関係に抽象して扱うが、現実の我々が対象にする物事は、様々な相互作用の組み合わせとしてある。
 対象性とはすべての存在が他にとっての対象として、全体の存在に関わっていることである。

 個々の物事に関わる相互作用は、物事を構成する相互作用と、他の物事との相互作用がある。物事を構成する相互作用は物事をそのものとして成り立たせる内容である。他の物事との相互作用は物事と物事とを区別する。それぞれの相互作用は相補的である。
 物事を構成する相互作用は、物事の質として現れる。物事を構成する相互作用は、物事自体の存在を内在的に規定する。物事を構成する相互作用も世界全体の相互作用の一部分であるが、全体の相互作用の運動過程に対して保存される、相対的に静止する運動である。相互作用の全体に対する相対的静止として物事は現れる。

 物事を構成する相互作用も、その作用の現れを見るなら、さらにより基本的な相互作用として、他の物事を構成する相互作用と連続し、区別できない。物事を構成する相互作用も孤立してはいないで、その基礎では他の物事を構成する相互作用と連なっている。それぞれを区別する相互作用によって、それぞれ別の物事として現れる。

 物事を構成する相互作用の基礎が、より一般的な、より普遍的な相互作用として全体に連なっているのに対して、物事を構成する相互作用は特殊化した相互作用である。物事を構成する相互作用は部分としてより特殊化するが、物事としてはより普遍的な存在になる。構成する相互作用が止まることのない運動過程にあるのに対し、その物事は運動しつつもその物事として保存される。

 物事がより基礎的な相互作用によって存在を現し、他の物事との相互作用の関係にあるように、他の物事との相互作用はさらに発展的な物事を構成するようになる。新たに現れる相互作用は、より発展的な相互作用の全体的関係をつくりだす。
 物事と、その相互作用はより発展的な階層と、元のより基本的な階層の積み重ねとして全体の存在を階層化する。物事の階層はクオーク、「素粒子」、原子分子単細胞生物、多細胞生物精神文化と大分類できる。さらにこの大分類された階層はその内により細分される階層構造を構成している。詳細な階層は容易に数えることができないほどに豊かに重なっている。
 世界は階層性をもち、物事は階層構造をもつ。

 世界の存在の有様=運動形態を4つの発展区分とひとつの特注としてより詳しく整理する。

 

【第1区分.継起的運動】

 普遍的存在は、継起的運動をする。同一の原因と条件からは同一の運動が現れ、同一の結果が継起される。
 継起的運動の条件は偶然であり、結果は外部条件に規定される。
 継起的運動はそれぞれの物事を区別しない対称性の高い運動である。
 継起的運動では物事を構成する内部運動と他の物事との相互作用は直接しない。
 継起的運動は玉突のように単純な運動であり、個々の相互作用は可逆的であるが、全体は一方向への不可逆的な運動である。

 

【第2区分.再帰的運動】

 継起的運動は組合わさり、その継起的運動自体に作用する再帰的運動に発展する。再帰的運動とは、運動の結果が運動の原因に作用するフィードバックである。因果関係は区別されず、繰り返し過程の連続になる。
 再帰的運動は継起的運動の組み合わせとして、ひとつの運動過程が複数の効果を現す。その運動過程と効果の現れが直接的でも、迂回的でも構成する機能は同じである。組合わさった双方の効果が他方の効果を生じる条件を否定・制限する運動過程である。
 再帰的運動は相互諸関係全体を方向づけ、相互作用の効果を制御する。再帰的運動は結果としての部分が全体を制御する。
 最も単純な再帰的運動の例は温度調節器(=サーモスタット)である。再帰的運動の機械的な利用は、自動制御の基本である。

 

【第3区分.自己組織運動】

 継起的運動、再帰的運動の発展は運動関係自体を組織化して、運動主体としての「自己」を創り出す運動に発展する。「自己」はより普遍的な存在として、他に対して独自な運動形態によって他とかかわり、自らを他から区別する。
 自己組織化する運動は継起的運動、再帰的運動によって構成、統一される物事の運動として、自己組織の関係を構成要素である運動から相対的に自律させる関係である。
 自己組織運動は継起的運動、再帰的運動を、「自己」を構成する内部環境として組織する。継起的運動、再帰的運動としては開放系であるが、自己組織化する運動は相対的部分として閉じた関係の系を形づくる。自己組織運動する物事は外部環境の変化に対して内部環境を一定に保つ。
 自己組織運動は初期条件というよりも、「自己」の内部環境の決定を「自己」の存在によって規定している。
 自己組織運動の代表例は生物の物質代謝である。

 

【第4区分.超える存在】

 相互作用間の相互作用はより発展的な階層を創り出す。基本的階層の運動を発展的な階層の運動が制御して、発展的階層の独自な運動を可能にする。発展的階層の基礎は継起的運動、再帰的運動、自己組織運動としてあるが、その運動過程を超えた他との関係、運動主体として超える存在を創り出す。超える存在として獲得されたより発展的運動形態は、より普遍的である。
 高エネルギー物理の運動は原子を構成する運動によってより安定である。生物の存在はそれを構成する生理過程・生化学反応よりも安定である。人間が創り出した文化は、個々の人の寿命・活動よりも安定で普遍的である。
 超えるのは決定論的関係であり、個々の存在がどのようにして超えるのか、個別科学も明らかにしきれてはいない。しかし「明らかにできていない」ということは存在しないということではない。現に生命は誕生したし、生物は進化し、我々は思考し、文化を創造する。

 

【特注.社会的物質代謝】

 地球上で最も超えた存在である我々にとって、社会は生きる基盤である。
 人間社会は自然の過程に対する人間の物質代謝組織として形成され、その中でヒトを人間に進化させてきた。
 生物としてのヒトの物質代謝は社会的物質代謝として組織されている。
 自然の物質代謝過程を破壊しては、社会的物質代謝も成り立たない。
 自然物は社会的物質代謝の過程に取り込まれることによって、社会的価値を持つ。
 自然物を社会的物質代謝過程に取り込むことも、社会的物質代謝を実現し、維持・発展させることも人間の労働に依っている。
 社会的価値は人間労働によって生産され、計られる。
 社会的物質代謝を実現する労働を担うことによって、ヒトは人間になり、人生を実現する。

 

【第二段階.認識】

 認識は図「世界観の対象とする世界の関係」の上半分を囲む領域である。
 超えてきた存在である我々人間は、我々の内に世界を映し出す。世界の一部分でありながら、世界全体を自分の内に映し出す。自らの生理的過程をDNAに記録する。自らの意識的過程を脳に記録する。記録した自らを対象との関係の内にに意識することで、対象との関係を変革する意志を獲得する。  我々人間は単に周囲の対象に反応するだけではなく、自らの生活を、自らの意志で実現しつづけるために世界を認識し、世界に働きかける。自然に対してだけでなく、人間へ進化させ、人間の存在を保証している社会に対しても、さらに自分自身に対しても働きかけることによって人間としての存在を実現している。その過程で自覚の程度は様々であっても、自然を、社会を、自分自身を認識する。
 対象間の相互作用、そして主体と対象との相互作用は、相互関連として認識される。
 対象である物事の相互作用は、神経組織の相互作用に対応する。
 物事は印象として、相互作用は連想として世界を相互関連として反映する。
 相互関連への対象間の相互関係の反映が認識である。

 

【存在の認識】

 「ただ見えるだけで触ることもできない物は存在しているのか。」
 ただ見えるだけの存在などこの世界には存在しない。光とだけ相互作用する物理的存在はこの世界の物ではない。それは観察者が、解釈者が想像によってこの世界に創り出した仮想の存在である。世界の物事は自らの内でも、他に対しても多様な相互作用を実現して運動し、存在している。その内の単一の相互作用だけで取り出せる関係としては存在していない。

 より基本的な階層の運動は再現性が高い。
 より基本的階層の物事はより高い対称性、可換性がある。
 より発展的階層の運動、物事はより基本的階層の運動、物事の発展形態として現れる。発展的階層の運動、物事は再現性が少なくなり、歴史性が大きくなる。しかし、発展的階層の運動、物事は存在自体が他との多様な相互作用の内にあり、他とのひとつの関係だけで肯定・否定されるような存在ではない。
 実在は多様な相互関係の内にあり、全体の関係と多様な関係を成している。

 とりあえず見えるだけの存在であっても、対象だけでなく観察の結果が記録されて存在する。科学データ・論文として、物によっては芸術作品の中に記録される。現在観察できるかだけではなく、何百年、何万年前から繰り返された観察記録間の関係も存在する。まだ見えない物、今見えない物、もう見えない物の存在も、今見る関係以外の関係がたどれる物はすべて存在を現すし、存在するし、存在した。存在関係は物理的関係以外の関係とも連なって関係している。
 また、「見える」ということ自体、対象と光と、観察者との複雑な相互関係として成り立っている。観察者自体その内に複雑は相互関係を含んでおり、時には錯覚すら起こし、錯覚があり得ることを対象との相互関係を操作することによって避けている。
 認識は、世界の関係、認識対象との関係を、認識の内に記憶として反映し、保存する。認識は記憶の相互関連をたどることによって対象を再現する。

 

【存在と認識】

 認識も対象と主観=主体の相互作用である。
 主体も物と物との相互作用と連関する相互作用をとおして対象である物を認識する。対象物との直接的相互作用としての認識は成り立たない。
 物の形を見る場合、物と他の物との相互の区別として形がある。その形あるものと視覚が直接相互作用するわけではない。対象である物と光との相互作用、光と眼との相互作用、さらに視覚を構成する生理的相互作用の過程、生理的過程を意識の過程に反映させる相互作用の過程、というように相互作用の連関によって視覚による認識がある。
 したがって、「物自体」の認識はそもそも成り立たない。対象物の認識は認識されるすべての世界の中に対象を位置づけることである。認識は対象物との直接的関係を持つことではない。対象の認識は「物自体」の認識ではなく、対象と主体との関係を主観の世界の相互関連の内に位置づけることである。

 

【第三段階.論理】

 論理は図「世界観の対象とする世界の関係」の右上の領域である。
 世界を理解するには、認識の方法と、世界を理解しようとする「私」の方法も理解の対象にする。
 対象である世界の相互作用の認識から進んで、相互関連そのものの認識として論理が獲得される。相互関連として認識された世界を、関係形式として再構築する。
 対象の相互作用は相互関連の抽象化によって主体にとって操作可能になる。対象は偶然の外的条件を捨象し、対象として規定しようとする物事の他の物事との相互関連として抽象される。
 物事間の相互作用は対象とする相互関連に置き換えられ、その変換形式、相互関係が関係形式の運用規則になる。対象は記号として抽象され、相互作用は相互関係として抽象され、記号とその相互関係によって論理の関係形式の系ができあがる。対象間の相互関係によって、論理操作の規則が決まる。

 論理は物として認識不可能なものも対象として扱える。「数」、「空間」、「時間」、「無限」、「存在しない物」等も論理によって、他の認識可能な存在と同様に扱うことができる。

 関係形式は世界の相互作用の相互関連を反映し、ひとつの閉じた体系を構成しうる。形式論理は相互作用の相互関連形式のひとつの閉じた系である。論理要素間の関係形式とその関係の形式的操作の系として形式論理が成り立つ。形式論理は形式的操作の正しさを保証する。したがって対象と論理要素との対応関係、対象間の相互作用と論理の関係形式との対応関係が正しければ、形式論理によって対象を論理的に正しく把握することができる。しかし閉じた関係の系にあって、その関係の中でのみの真偽が問題になりえるだけである。閉じた系自体の真偽は問えない。
 現実の対象は不変ではないし、我々の認識も深まる。世界の相互作用、認識の相互関連、論理自体の関係形式を相互に対応可能な系として捉えることが可能なのは形式論理ではなく弁証法であり、世界観である。弁証法は現実の対象の変化、運動する存在の関係形式としての弁証法論理と、我々の認識の深化に対応する関係形式の発展の弁証法論理によって構成される。存在の弁証法認識の弁証法であり、この2つの統一として弁証法論理が構成される。ただし、弁証法は現実による検証から離れてしまうと思弁的言い訳に陥ってしまう。
 論理によって普遍化、一般化された関係形式は実践において、存在によって検証される。

 

【存在・認識・論理と意識】

 存在、認識、論理は客観的過程としてあるが、「私」の内に主観的過程としてもある。主観の内にあっては反映する、思惟する個々の存在は意識の対象として平面=二次元の関係に投影される。
 多次元の世界の対象を二次元に反映するのは層構造による。この層ひとつひとつは模式化するなら図形処理プログラムのレイヤーに相当する。
 各個別科学のサブ・レイヤーの統合されたレイヤーとして存在に関する知識のレイヤーがある。
 感覚、記憶、意味、感情等のサブ・レイヤーからなる認識のレイヤーがある。
 言語、概念、法則等のサブ・レイヤーからなる論理のレイヤーがある。
 これらのサブ・レイヤーもさらにいくつものレイヤーに分けられうる。対象は各レイヤーに反映され、各レイヤーにおいてやはり反映される他の対象との相互関係の中に反映される。  対象間の関連は無秩序に連なっているのではない。レイヤー毎の質、あるいは関係の種類によって分類される関連として関係している。  それぞれの対象は各レイヤーでの反映像の重なりとして統一して意識される。
 レイヤー間の前後関係の変更、扱われるレイヤーは、意識によって選択される。意識はこの二次元の多数の層の重なりを世界の存在、認識、論理の立体構造=多次元として解釈する。
 さてこのレイヤー論が認知科学で説明できるのかどうか。シミュレーション・モデルを作ることができるかどうか。

 

【宗教への態度】

 「科学によってすべては明らかにされていない」、「科学もひとつの認識の方法であって、宗教的認識と違う特別な根拠のあるものではない」ことを根拠に宗教を擁護する者のいることを私は知っている。また、「神」、「霊」についても、人が語る物としての存在を私は知っている。
 しかし、それらが物体や、生物や、人間と同じように存在し、運動するとの主張は受け入れられない。神や霊の存在を主張する人々も、まさかそれらが物質と同じ存在であるとは主張していないであろう。
 私は、物質以外の存在と関係したことがない。したがって、人に語られ、表現された、物質化された「神」や「霊」について語ることはできても、その意味するものについて論ずることはできない。

 

【実践】

 哲学は宗教を信じることと何の変わりもないとの異議に対して応えなくてはならない。
 答えは「実践」である。世界の関係の中に「私」を位置づけることである。世界の相互関係の中に私という関係を関係づけ、私以外との関係を私が変革していくことである。「私」はこの関係の中につくられており、この関係の中に存在し、この関係によって私以外の物に働きかけ、この働きかけによって私自体の関係を組織化し、実現している。「私」を実現できるのは、世界のこの関係の中であり、他との関係を自分の内に取り込むことによって、自分の関係をつくりだすことができる。食べ、呼吸し、感じ、語り、働き、休養し、私を実現し続けることができる。なにかを信じることだけでは私を維持することはできないし、私を実現することはできない。

 

【価値】

 最後は「私を実現する、私は生きる」と言うがそれにどれほどの価値があるのか。
 「価値」とは存在する、手に入れられる「物」ではない。「存在」に価値があるのではない。「価値」は方向を決めるときの基準である。「私」が生きる、行動する、私を実現する方向の基準である。その基準は「私」が世界の関係をどう評価するかに関わっている。その評価が正しいか間違っているかは、世界の関係がつくりだす方向とどれほど一致しているか、どれほどの範囲で一致しているかによって決まる。客観的価値基準は世界の運動の発展方向である。世界の運動の発展方向は世界観として認識される。



 「論文は根拠を示さなくてはならない」と言われる。しかし、それぞれの経験を根拠にして、それぞれの経験を対象とする世界観の根拠は、引用によっては示しようがない。せいぜい個別科学の成果の引用は、高校の教科書でも参考にするしかないのかも知れない。私の経験を総括すると、経験から得られたものはこの様に表現することができる。


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