ヨハネ福音書 訳注

 4 カナの婚礼 (2章1〜12節)




 1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、イエスの母がそこにいた。 2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 3 ぶどう酒が切れたので、母はイエスに、「ぶどう酒がなくりました」と言った。 4 イエスは母に言われた、「婦人よ、それがわたしとあなたに何の関わりがあるのですか。わたしの時はまだ来ていません」。 5 母は召使いたちに言った、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。 6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二ないし三メトレテスまで入るものであった。 7 イエスは召使いたちに言われた、「水がめを水で満たしなさい」。すると、召使いたちは縁まで満たした。 8 イエスは彼らに言われた、「さあ、それを汲んで世話役のところに持って行きなさい」。そこで、召使いたちは運んだ。 9 世話役はぶどう酒に変わった水を味わって、それがどこから来たのか知らなかったので――水を汲んだ召使いたちは知っていたのだが――、花婿を呼んで 10 言った、「人はみな、はじめによいぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものです。あなたはよいぶどう酒を今まで取って置いたのですか」。 11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
 12 その後、イエスと母、兄弟たち、弟子たちはカファルナウムに下って行き、そこにしばらく滞在した。


1節 【三日目に】 1・35 と 1・43の「その翌日」と合わせて、イエスの登場を語る最初のまとまり(1・19〜2・12)を7日の出来事とするための日数(1・29の「その翌日」の注を参照)。これはガリラヤのカナまでの旅の日数でもあろう。同時に、「三日目に」はイエスの復活を告知するケリュグマに含まれており(コリントI15・4)、著者は水がぶどう酒に変えられた出来事を復活の「しるし」としていることを示唆している。「三日」が復活に関わる日数であることは、「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる」(2・19)も同じ。

1節 【ガリラヤのカナ】 ヨハネ福音書は、イエスの働きをエルサレム中心に描いている。それでガリラヤでの働きは、とくにそれがガリラヤでのことだと断り書きをつける傾向がある(2・54)。ここもその一例であると見られる。ただ、フェニキヤのカナと区別するために「ガリラヤのカナ」と呼ばれているとする見方もある。カナは新約聖書ではヨハネ福音書だけに出てくる地名で、その所在は現在では確定できないが、ガリラヤ湖から西へ約20キロにあったと見られている。

1節 【イエスの母】 ヨハネ福音書ではマリアという名は出てこない。ここと十字架の場面(19・25〜27)で、すなわちイエスの公的活動の初めと終わりに、「イエスの母」として登場する。なお、父親が言及されていないのは、この時には亡くなっていたことを示唆している。

2節 【婚礼に招かれた】 イスラエルでは婚礼は重視され、ラビも婚礼に参加するために律法教授の義務から解放され、断食などの規定も適用されなかった。

4節 【婦人よ】 イエスはここで、母と息子という関係を超え、一切の人間的な絆を超えた方として発言しておられることを示唆している。

4節 【それがわたしとあなたに何の関わりがあるのですか】 原文は「わたしとあなたとは何の関わりがあるのですか」と訳することも可能。多くの現代語訳はこの意味に理解して訳してきた。しかし、ここでは「ぶどう酒がなくなったことは、わたしとあなたに何の関わりがあるのですか」と理解する方が自然であり、イエスは旧約聖書にもよく出てくる拒否の表現(士師記1・12など)を用いておられると見られる。NRSV,新共同訳、岩波版佐藤訳もこの線で理解している。

4節 【わたしの時はまだ来ていません】 後に兄弟がエルサレムに上るように勧めたときにも、イエスはこの言葉を用いて拒否しておられる(7・6、8)。そして、苦しみを受ける時が迫ったとき、「人の子が栄光を受ける時が来た」(12・23)と言い、「この時から救ってください」と祈りつつも、「わたしはまさにこの時のために来たのだ」と言っておられる(12・27)。「わたしの時」とは、イエスが「地上から上げられる時」(12・32)、すなわち十字架につけられて地上から上げられるが、復活によって栄光の座に上げられるという二重の意味で「上げられる時」を指している。ここでは、その時がまだ来ていないと言いながら、その時の栄光を指し示す「しるし」を行われる(2・11)。この「わたしの時」の思想はヨハネ福音書独自のものであるが、この表現が他ではマタイ26・18に出てくることが、伝承史的に注目される。

5節 【母は召使いたちに言った】 この物語で「イエスの母」は執り成し役を果たしている。それで、「母」は聖霊または《エクレーシア》を象徴し(聖霊はしばしば父なる神に対して母なる神とされ、《エクレーシア》も「母なる教会」と呼ばれる)、イエスの「召使いたち」をイエスに導く働きをしていると解釈される。

6節 【清めに用いる石の水がめ】 当時のユダヤ教では、ハラカ(口伝伝承による細則)によって、食事の前には手を、市場から帰宅した時には全身を、またその他の器具などを、水で清めることが求められていた(マルコ7・1〜5参照)。これは異邦人に接したことから来る汚れを清めるための儀礼であり、律法により自分たちを異邦人と区別する(清める)ユダヤ教の典型的な表現である。それで、ここで水はユダヤ教を象徴していると理解されることが多い。

6節 【二ないし三メトレテス】 1メトレテスは約39リットル。2ないし3メトレテス入る水がめは、100リットル前後の大きな水がめである。

7節 【縁まで満たした】 水がユダヤ教の象徴であるとすれば、この表現はユダヤ教が行き着くところまで行き、イスラエルにおける神の働きの時が満ちたことを象徴することになる。なお、召使いが水がめに水を満たす光景は、エリシャの「不尽の壺」の奇跡(列王記下4・7)を思い起こさせる。エリシャの場合、限りなく出てきたのは油であるが、油とぶどう酒は共に救済の力の象徴である(ルカ10・34)。

9節 【ぶどう酒に変わった水】 水がぶどう酒に変えられる物語は、ギリシャのディオニュソス神話にもあり、その影響が議論されている(養老の瀧伝説は神話の伝播という視点から興味深い)。著者が直接ディオニュソス神話を用いたというのではなく、この神話がユダヤ人を含めヘレニズム期の東地中海世界に深く浸透していたという意味では、間接的に影響を受けていたことは考えられる。しかし直接的には、ぶどう酒の象徴的意義は旧約聖書から受け継がれていると見られる。旧約聖書では、ぶどう酒は人の心を喜ばせる神からの賜物であり(詩編104・15)、とくに終わりの日の救いを祝う祝宴において無償で賜る賜物である(イザヤ25・6、55・1)。クムラン教団でも、メシアの到来を祝う食卓でパンとぶどう酒が用いられていた。おそらく著者は、律法支配の時代が終わって、イエスと共にこのような終末的な救済の日が来ていることを、水がぶどう酒に変わるという象徴で表現しているのであろう。

10節 【取って置いたのですか】 底本は「取って置いた」という平叙文。ギリシャ語では疑問文も同形なので、疑問文と理解することも可能。ここでは驚きを表現するために疑問文に訳す。主語の「あなた」は強調されているので、「あなたという人は、よいぶどう酒を今まで取って置いたのですか」と呆れ驚いていることになる。

11節 【最初のしるし】 直訳は「しるし(複数形)の最初のもの」。ヨハネ福音書は、イエスが行われた奇跡を、神の子としてのイエスの栄光を指し示す「しるし」として重視している。おそらく著者は、イエスの奇跡物語を集めた「しるし資料」の中から典型的な七つを用いて、イエスの地上での働きを描く本体部分(2〜12章)を構成したのであろう。そのさい、カナの婚礼での奇跡を「最初のしるし」とし、その後エルサレムでも「しるし」を行っておられるにもかかわらず(2・23、3・2)、カナで王の役人の息子を癒された奇跡を「二回目のしるし」と数えている(4・54)。

11節 【その栄光を現された】 この福音書においては、地上のイエスは「肉と成って、わたしたちの間に幕屋を張った」永遠の御言であり、その「父からのひとり子としての栄光(本質)」を現された方である(1・14)。「わたしたちは彼の栄光を見た」という体験は、イエスがこのような「しるし」によって「その栄光を現された」結果である。

11節 【それで、弟子たちはイエスを信じた】 「しるしを見て信じる」というのは、「しるし資料」の基本的な立場であろう。著者はその立場を継承しつつ、一方ではその立場に批判的な見方をしている面もある(2・23〜24、7・3〜5、20・29など)。

12節 【カファルナウムに下って行き】 共観福音書によると、イエスの家はカファルナウムにあった(マタイ4・13)。ガリラヤ湖畔のカファルナウムは海抜下200メートルにあり、ガリラヤ中央の山地にあるカナからは「下って行く」ことになる。



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