福音の祭司
ローマ人への手紙15章16節に出てくる「神の福音のために祭司の役を務める」〔新共同訳〕という言い方は、やや奇異で、パウロはもとより新約聖書でもここだけである。この「ヒエルールゲオー」(祭司の務めをする)の現在分詞が、直前の「キリスト・イエスに仕える者となり」と結んでいるのは明かであろう。「レイトゥールゲオー」(仕える者となる)という動詞は、「祭儀を執り行なう/祭儀に奉仕する」という意味で、ほんらい祭司あるいはレビ人として儀式を執り行なったり、儀式に奉仕したりすることを指す用語である。ただしこれの名詞は「奉仕者」「従者」の意味で用いられた(例えば七〇人訳サムエル記下13章18節)。名詞の場合は、祭司よりもむしろレビ人の職務に近く、パウロもここでは「仕える」の意味で名詞形を用いている(ローマ13章6節)。また「神の福音のために祭司として務める」は、語法的には、これに続く「異邦人という献げ物をすることで神に喜ばれるために」という目的を表わす節へつながる。内容的に見れば、この節全体が「祭司の務めをする」ことの意味を説明していると理解していいであろう。
だからパウロは、自分を祭司と見なすことで、キリストにあってイスラエルの神の祭壇に異邦人を捧げる使命感を自覚していたと解釈できよう。すなわち、ユダヤ人キリスト教徒として、またキリストの使徒として、エルサレム教会の使徒たちが割礼の者たちをキリストへ導く役目を担っているのに対して、自分にはキリストにあって異邦人をイスラエルの神に捧げる使命が与えられているという自覚である。だからパウロは、このような祭司的使命感をローマにいるユダヤ人キリスト教徒たちに伝えることで、彼らの理解と支持を得ようとしているという解釈が成り立つ。この解釈に立つと、ローマ人への手紙は、ユダヤ人キリスト教徒たちに宛てられた書簡として読むことが出来る。
しかしながら、七〇人訳では、先に指摘したように「レイトゥールゲオー」は、祭司よりもレビ人の職務を指す場合が多い。だから、ここでのパウロの用法も、祭司的な役目よりもむしろレビ人のそれに近く、単に奉仕者として「仕える」ことを意味していると見ることができる。「キリスト・イエスに仕える者として」という言い方も、この解釈を支持する。さらに16節の結びは、「聖霊によって聖なるものとされて」であって、ここで祭儀的表象は、その実質的な内容へと移行しているのが分かる。そうだとすれば、これに続く「福音の祭司として務める」は、異邦人のための福音の奉仕者となることを意味することになろう。さらに言えば、キリストが異邦人の救いのために贖いの血を流したように、自分もそのために「奉仕する」という意味にも解釈できよう。だとすれば、この意味での「祭司の務めをする」は、ヘブライ人の手紙5章1〜10節に出てくるイエス・キリストが「祭司である」(5章6節)という用法を先取りしていることになる。この場合には、書簡の相手をユダヤ人キリスト教徒に限定することはできない。また「祭司の務めをする」は、必ずしもユダヤ的な祭司職を意味する必要がなく、この語は、ヘレニズム世界の諸宗教でも一般的に用いられていた。このように見ると、ここでのパウロは、注意深く婉曲な用語によって、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒とのどちらの側からの解釈をも許容するきわめて巧みな手法で両者に語りかけているのが見えてくる。